社会の怖さ

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人生の失敗6

第6回
自我の孤立
集団生活が初めてだったので学校は当初学校は興味深かった。しかし規則が多すぎるのには閉口した。姉が家で特訓してくれたお陰で計算が速く学校での成績はまずまずだった。4月生まれで体力もあったので担任からは評価されていた。
低学年では担任と上手くいっていた。ところが徐々に私の欠点が露出した。自我が強いという点だ。前に書いたように弱いくせに口が達者な相手を攻撃したくなるのが悪い癖だった。そのため何人もの生徒を泣かせた。
そもそも規律に重きを置かない私の性格はクラスで浮いた存在となって来た。担任の私への関心も薄れて行った。日本の学校では個性は尊重されない。従順さが要求される。担任が御しやすい生徒が厚遇される。私の自我は独立を願っていたからやがて担任とは決別する時が来るのは必至だった。
個人の自我同士も対立するが同じタイプの自我が寄り集まった集団にも集団の自我が発生する。私は個人の自我だけでなく集団の自我とも対立を余儀なくされた。その点で世渡りは苦手だった。
高学年になって転校生が入って来た。その中に山口という名の生徒がいた。彼は従順を絵に描いたような男ですぐに担任のお気に入りとなった。彼は親分肌のところもあり、私とは正反対の性格をしていた。担任は何かにつけ彼を頼った。私の中に嫉妬心が宿った。
担任は何と6年間も私の受け持ちだった。母よりもかなり若い熟練に達しかけた女性教師だった。彼女は私の憧れてあり母に近い存在だった。しかも彼女にはいつしか女性を感じるようにもなっていた。胸の割れ目に胸をどきどきさせられたものだった。
私にとって転校生の山口は担任を巡ってのライバルだった。私は暫くして担任からの寵愛の座を完全に彼に奪われたことを感じ始めていた。私は彼に対してより心変わりした彼女に対して敵意を抱くようになった。名誉欲が根底から覆された瞬間だった。
さらに追い打ちをかけるようにクラス全体が私に敵対した。悪ふざけが好きな私は学級会での標的とされた。運動靴の先端に開いていた穴に砂を詰めて足を振り上げると砂が相手にかかる。その悪ふざけを何人かの友達相手にしていた。何でも度が過ぎると悪ふざけはひんしゅくを買う。私はついやり過ぎた。それを学級会で指摘され散々な目に遭った。
学級会でのつるし上げで私の名誉は地に落ちた。何とかして名誉欲を多少なりとも満たしたいと思っていた。好機が訪れた。個人の進学塾に通う機会がやって来た。そこの講師に認められ少し安堵した。
一時は中学受験に心を燃やしたが所詮受験は幻想に過ぎなかった。算数を解くのには興味があったがそれ以外の科目には興味はなかった。受験のために小学校の貴重な時間を費やすのは無駄だと気付いた。とにかく自我を無理強いさせるのは不可能だった。
7回に続く
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クラブ活動

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人生の失敗5

第5回
自我の欲求の阻害と挫折
自我が欲望に目覚め目的を果たそうとしても必ず阻害される。人間社会には資源が有限でそれを多数の人間たちが分け合っているからだ。自我は欲望を十分に果たせないままに日を過ごすことになる。
子供の欲望は日増しに高くなる。自我が明確になるにつれ欲望の種類も増して来る。他人の物を所有したいとの欲求も盗みという形で断罪される。断罪されるからこそ盗みは罪だと言うことを明確に心に刻み込まれる。
子供にもやがて支配欲が目覚めて来る。仲間を従わせたいと言う欲望だ。私は我が強かったせいか支配欲も強かった。玩具の奪い合いでは相手を泣かせたり、自分に従わない相手に暴力を振るったりしたこともある。
幼稚園に行かなかった私は近所の子供と遊んで毎日を過ごすのが常だった。その中でも一番の友達は前に出たよし君だった。彼は友達と言うより言わば部下のような存在でなすがままにされていた。その経験が私の自我を高慢にした。
小学校に入ると集団生活に不慣れな私は戸惑った。とにかく規律に縛られるのが苦手だった。しかも友達はよし君のように私に従う者ばかりではない。当然反抗する者も多い。腕力に自信のあった私はある程度彼らを組み伏せた。それでも限界があった。
私にとって最も苦手なタイプは腕力も体力もないくせに言葉だけは達者な相手だった。との中でひ弱な木幡君がいた。よたよた歩いているのに口答えをよくする彼が不快だった。ある時、廊下を歩いていた彼を突き飛ばした。彼は顔から落ちて怪我をした。
当然、親が黙っていなかった。すぐ学校に押しかけて来て、私の親は呼び出しを食った。担任教師に散々たしなめられた。そして相手の家に謝りに行くことになった。菓子折りを持ってすごすご出掛ける母親を不憫に思った。
そんな出来事が何度かあった。私は相手に腕力を振るうことが悪いと知りつつも自我を抑えることができなかった。自分の支配欲が益々強大になって行くのを感じていた。ところがある出来事により私の強大になった自我がとん挫したのだ。
5年になったある日近くに新しく出来た公園で遊んでいる時のことであった。公園の中央には山のような形をした滑り台があった。その頂上に顔見知りのKが座っていた。彼は一歳年下だった。私は何気なく「おーい、河童」と叫んだ。彼の名前を知らなかったからだ。
すると彼は突然顔色を変えて山形滑り台を急降下し、私に突進して来た。そのまま私の胸倉を掴むと殴り掛かって来た。私は咄嗟に身をかわし、彼を地面に投げ伏せた。そして彼の上に馬乗りになった。殴ることは出来なかった。自分の不用意な言葉がトラブルの原因だったことを知っていたからだ。
私はその経験でからかい半分の言葉掛けは相手に敵意を抱かせることを初めて身に染みて知った。自我を野放しにしていては今後もトラブルに巻き込まれる不安に襲われた。相手の必死の抵抗に遭って私は自我の横暴に気づき初めての挫折を味わった。
第6回に続く
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性の惑い

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人生の失敗4

第4回
盗みの罪
小さい頃の住まいは長屋暮らしで3軒が同じ屋根の下に連なっていた。右隣が用品店でその隣が薬屋だった。私はその店のおばあさんと親しくしていたのでよく遊びに行った。薬にはおまけがつきものだ。その中でも昔は子供が喜びそうなおまけがあった。
1枚の紙なのだが綺麗な印刷がされていて切り抜きができるようにミシン目がついていた。それを切り抜いて組み立てると家とか車とかが出来上がった。その中でも私が気に入ったのがあった。その切り抜きをおばあさんから初めてもらった時はうれしかった。
その2,3枚で我慢すれば良いのに私は欲張りだった。さらに枚数がほしくなった。そこである日おばあさんが店にいないのを幸いに店頭の裏にあったその切り抜きを大量に失敬したのだ。後でその行為がばれて気まずい思いをした。でもそれほど酷く怒られた記憶はない。
それはおまけだったから酷く怒られなかったのかも知れない。私もおまけだからと言う言い訳が心にあったのかも知れない。でも盗んだ時、明らかに良心の咎めは感じた。悪いことしていると感じてはいた。
もう一つの盗みは家での行為だった。茶の間に箪笥の上に小銭を入れた貯金箱があった。その貯金箱は正十六角形だか正二十角形だかのプラスチック製だった。壊すわけにはいかないので小さい投入口から抜き取ろうと試みたが上手く行かない。
私はそれを抱えてトイレに入った。昔のトイレは汲み取り式で足元に小窓が開いていた。私は貯金箱から小銭を取り出すのに夢中でその小窓から母親が見ているのに気づかなかった。そして盗みが発覚した。
その夜、両親から酷く叱られた。正直に言えば小遣いをくれる良心だったが黙って盗むことに容赦はなかった。父親は暴力は振るわなかったが近くの交番に連れて行くと言って手を放さなかった。その時は恐怖だった。罪には罰が伴うことを知った。
5回に続く

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人生の失敗3

第3回
罪意識に目覚める自我
前章のチョーさんはからかい半分だったので罪意識はなかったのだろう。だからまともに謝りもしなかった。いじめには罪意識が伴う場合が多いがそれでもいじめの誘惑には勝てない。相手の名誉を傷つけることに人は喜びを感じるらしい。
自我は外界に多くの敵がいることを知った。子供同士の世界でも敵はいる。子供は欲張りだ。相手の玩具を取りたがる。自分の玩具より相手の玩具がよく見えるのだ。これは人間誰しも持っている所有欲の始まりだ。
よし君という友達が近所に住んでいた。私は彼とよく遊んだものだ。遊んでいるうちに私は彼の玩具を欲しくなった。そして無理やり取り上げた。彼はそれを取り返そうとする。そこで喧嘩が始まった。体力に勝る私がいつも勝ち彼は泣きながら家に帰って行った。
私は悪いと知りつつも所有欲に負けて彼を泣かせては仲直りを繰り返した。自我は所有欲に振り回されて相手に立ち向かう。そして必ず衝突が起こる。負けた方は悔しいが勝った方も罪意識に悩む。罪意識とは主に勝者が抱く相手に対する感情から発する。
個人の所有が不明瞭な古代においては自然に熟成する果物を誰がとってもその行為は罪に当たらない。その行為は普通、動物・鳥によってなされているのと変わらない。ところが人間は土地を所有ことを覚えた。そして自分の土地に侵入する者に罰則を加えた。自然はその時点で楽園ではなくなった。
聖書は便宜的にイブが蛇に唆されて善悪を知る木からリンゴを食べたことから罪が発生したと記している。イブと共にリンゴを食べたアダムも神の楽園から追放された。その出来事で人間は善悪を知り、悪魔の存在を知ったと記されている。
欲張りな人間は縄張りを持ち、他者を排除することでその所有欲を満足させている。
4回に続く

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人生の失敗2

第2回
自我の芽生え
私が生まれて初めて自我に出会ったのはある人物を介してであった。その人物はチョーさんという名で私の記憶に留まっている。記憶は良い記憶より悪い記憶で残りやすい。悪い記憶ほど魂の奥底にまで達しているからだ。
チョーさんの言葉で私の自我は傷つけられた。映像も記憶には重要だが言葉は確実に薄れることなく記憶に留まる。言葉はそれだけで一人歩きする性質を有する。従って言葉による相手への攻撃や中傷は相手の心から消え失せることはないことを覚えておくべきだ。
余談だが痛みの記憶も強烈に心に残る。幼少時に足を自転車に巻き込み足首の皮膚を剥いた事故・指の爪をミシンで半ば貫通した事故等はその時の痛みと同時に即座に思い出される。つまり心には楽しい記憶より辛い記憶が残りやすいということだ。
話を元に戻すとチョーさんは幼い私に嘘をついた。洋服組合の旅行の二日目の朝、父親が私一人を置き去りにして帰ってしまったと私を騙した。子供の私はその話を真に受けて泣き叫んだ。それを見てチョーさんはほくそ笑んでいた。幸いなことに父はやがて洗面から戻って来た。私はホッとしたと同時にまだほくそ笑んでいたチョーさんを憎らしく思った。そして次の瞬間私は彼に躍りかかっていた。
この記憶は今でも鮮明に残っている。そしてチョーさんへの恨みは恐らく一生消えることはないだろう。家族の優しさしか知らなかった私が外界の代表である他人から酷い仕打ちを受けた初めての経験だった。私は自分の周りには敵がいることを知った。そしてその敵から自我を守る必要を感じた。名誉欲が阻害された経験だった。
チョーさんにとってはほんの遊びで子供心をからかったのだろう。それはいじめとはいかないまでも相手の自尊心を傷つけた。いじめは意図的に相手の自尊心を傷つける。動機は違っても相手の心を傷つけることに変わりはない。肉体的暴力より言葉の暴力の方が深い傷を負わせることが多い。
3回に続く
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