ボーダーラインワーク5

その5)
大学時代には軽音楽部に入っていたので、ステージに立つバイトをしたことがある。その場所は東中野にあるN閣という結婚式場だ。そこで毎夏、バイキングが行なわれた。
そのバイキング場に設えられたステージで演奏するのが仕事だった。夏、1ヶ月稼いだ金は皆で山分けした。30分のステージが3、4回あった。その間には他の出し物が挟まれた。
ある時、楽屋にいると何と林家三平師匠が現われた。有名人を間近で見て、僕はドギマギした。テレビで見るのと同じで、いつもにこやかで周りを笑わせていた。
ステージの合間に夕食が出たが、無論バイキングなどではなく簡易な夕食だった。演奏が終わって夕食を食べに行く時、バイキング場の壁際に並ぶ従業員の横を通ると一人の女性から「お疲れ様」と挨拶された。
其の女性は僕らより少し年上らしく落ち着いていた。浴衣姿が良く似合い、妖艶な色香を漂わせていた。僕が前を通った時に挨拶されたので、仲間達は羨ましがっていた。
僕は其の人を意識するようになった。演奏中でも視線を感じたことがあった。そして何かが起こることを期待した。ところが恋の期待はいつもそうであるように何の結果も生み出さなかった。
同じく恋に何かを期待しながらいつも実らない仲間達は、ある年、夏の合宿で大胆な行動に出た。同じペンションに泊まっていた某女子大のキャンプファイアーに強引に参加し、一時を共に過ごした。同じく大胆になった僕もメガネを外し、フォークダンスの輪に加わった。
するとラッキーなことに一人の活発そうな女の子が僕の隣りへ来てフォークダンスを踊った。音楽が一しきり終わった後も彼女は視線をこちらに投げ掛けていた。僕が話し掛ければ、何か起こったかも知れなかったが、僕には勇気が足りなかった。
その合宿で僕は仲間にムスコの短小を見られてしまった。同じ風呂に入ったことが原因だったが、其れ以降、後輩からも陰口を叩かれた。僕は仲間達と余り上手く行っていなかったらしい。
同級の一人はTといいフルートを吹いていたが、リズム感に乏しく閉口した。ドラムを叩いていた僕は彼の演奏にイライラしていた。しかも酒癖が悪く、合宿途中の列車内でも管を巻いていた。
彼らとのトラブルは思い掛けない出来事から起こった。ある日、大学バンド振興会の男が練習中の僕らを尋ねて来た。彼はバイト先の斡旋をしてくれる大事な人物だった。N閣もバイトも彼の斡旋によるものだった。
彼は楽器が出来ないくせに注文が多かった。僕のドラミングにも文句を付け出した。其の時まで大人しく見られていた僕は鋭く反抗した。「そんなに注文をつけるなら俺は降りる」と言い残してその場を去りかけた。
するとその男は急に態度を変えてこう言った、「君が降りればみんなバイトを失うんだよ」「そんな事、構うもんですか」僕は言ってやった。仲間達は黙って呆然としていた。
遂に其の男が折れた。「分かりましたよ。其のドラミングでやってくれれば良いです」仲間達は安心したようだった。僕も内心、ステージバイトの首がつながってホッとした。
6に続く

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ボーダーラインワーク4

その4)
待機している時はドキドキするが、いざ積み込みとなると度胸が据わる。2tトラックにすべて一人で積み込むのは容易ではない。先ず二列に荷台の右奥から埋めて行く。
荷台は密封されていて夏場なので暑かった。天井は低く真直ぐ立つのがやっとだった。中腰の姿勢でローラーキャリーで流し込まれて来るパンラックを一段ずつ積み重ねて行く。
ラック同士は上下うまく噛み合うようになっている。それが噛み合っていないときは乱暴だが足で、そこを蹴飛ばす。すると上手く嵌るのだ。右奥を上段まで積み込むと左奥に移る。左積みは慣れないとやりにくい。
こうしてトラックの最後部までパンラックを積み込むと順番交代となる。積み終わった時はさすがに汗びっしょりだ。連続で出来る仕事ではない。待機する時間があって丁度良い。その間に汗が引く。
積み込みに習熟した者は次にパンのラック入れに回される。20メートルほどにも連なるローラーレールの上を客先毎のラックが流されて来る。その中には配送伝票が入っており、その伝票に従って受け持ちのパンを入れて行く。
一人で十種類以上のパンを受け持つので、ラックが重なって流れて来ると、時にてんてこ舞いする。ラックの流れが止まると後ろが渋滞して迷惑を掛ける。気が休まらない部署だ。
最後に回されるのが段取りと言う部署だ。そこは仕分けの最後部であり、空のパンラックをローラーレールに流す仕事だ。天井に届くほどまで高く積み上げられたラックを下しながら一枚ずつレール上に並べる。単純だが緊張する。
早い時には2時過ぎにトラック積み込み作業はすべて完了する。段取り係は余ったパンラックを再び天井高く積み上げねばならない。場所を塞がない為だ。ラックを崩さずに身長の2倍ほどの高さにまで積み上げるのは至難の業だ。
このバイトの楽しみは不良落ちしたパンを好きなだけ持ち帰れることだ。不良落ちとはパンが潰れたり、形がくずれていたりして客先に出せないものだ。僕はいい気になってビニール袋一杯、家に持ち帰ったものだ。
朝はパン食の家だったので、パン代を浮かせることが出来た。僕は生まれた時からパン好きで、米よりパンが好きなほどだった。ところが困ったことに、毎日パンを3ヶ月に亘って、食べ続けた結果パンを見るのも嫌になってしまった。
トラックへの積み込みが完了し、作業が終了しても3時になる事は少なかった。送迎バスは6時にならないと発射しないので、その間、僕らは仮眠を取った。仮眠できる大広間のような畳部屋が用意されていた。
不思議な事にそこで仮眠する従業員は殆どいなかった。みな三々五々、作業が終わるとどこかに散って行った。僕は広い部屋で一人寂しく暫しの休息を楽しんだ。
時には6時の送迎バスを待たずして夜明け前の薄明かりの中、徒歩で駅に向かう事もあった。夏の日差しが照りつける前の一時は涼しくて気持ち良かった。僕は路上の自販機でグアバジュースを飲むのが常だった。
始めて飲んだグアバジュースの味は今でも忘れられない。最近、見かけないので残念だ。グアバの粒粒が残り、ネクターに似た喉ごしのジュースは疲れ切った身体を芯から蘇えらせてくれた。グアバジュースよ、永遠なれ。
鶴川駅に着く頃には東の空が白みかけ、始発電車に乗ることができた。家に着く頃には誰もが出勤準備に追われていた。僕は朝ご飯のパンを食べると、缶ビールを飲み干し眠りに就いた。当時のアサヒはまろやかでさわやかだった。
夜間のバイトは僕の意識から夜の陰鬱さを取り去るのに役立った。丑みつ時という子供時代からの怖れの時間帯を心から拭い去り、昼夜が一体の連続した時間帯として捉えることができるようになった。
5に続く

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ボーダーラインワーク3

その3)
ゲーム場のバイトも飽きたので違うバイトに挑戦したこともあった。お中元の配達である。Mデパートの配達だが、自転車で運ぶものだった。当日の朝、近くの配送所に出かけて行った。
そこでは荷台が普通より広く、そこに網の籠が取り付けられた自転車があてがわれた。僕はそこにある程度、荷物を積んだ。するとそこの従業員は「それだけでは足りないよ」と言って、更にうず高く積み上げた。
僕は支えているのがやっとの自転車に乗ろうとサドルに跨った瞬間、前輪が確かに浮いた。僕は体重が軽く、50kg台の半ばだったので後ろの荷台の荷重を支え切れなかった。危うく転倒しそうになった。
一つも配らずに撤退するのは気が引けたが、身の危険を感じた僕はうず高く積まれた荷物一杯の自転車を配送所に戻して、その場をそそくさと去った。敗北感は残ったが、転倒して荷物を弁償する羽目にならずに済んだ。
やはり僕にはゲーム場のバイトしかないと心に決め、再びロコモティブに舞い戻った。配属された先は大森ボーリング場であった。駅から少し離れていたためが常に客がまばらであった。ゲーム場が込むのは土日だけだった。
そのゲーム場での楽しみは少なかったが、ボーリング場前の道路を隔てて日本蕎麦屋があった。そこで僕は良くカレーうどんと半ライスを注文した。それが唯一の活力源だった。
午後から夕方にかけてのバイトだったが、ゲーム場に飽きて来ていた僕は新たな刺激を求めていた。遂に夕方以降のバイトを探し当てた。それはパン工場のバイトであった。
N製パンといい、場所は鶴川駅の近くだった。そこから送迎バスが出ていた。僕は大森ボールのバイトが終わるとすぐに鶴川に移動した。駅前の立ち食い蕎麦屋で早めの夕食を食べた。
その蕎麦屋は親子で経営していた。親と言っても老人夫婦だった。子はと言えば妙齢の女性だった。初め親子とは思えなかったが、会話の様子で親子らしかった。
僕は蕎麦を食べる為かその女性を見て活力を得る為か分からないまま、そこに通い続けた。その女性も僕を多少は意識しているようだったが、そこから何か進展があろう筈もなく、時は流れた。
蕎麦を食べて駅前で待っているとパン工場の送迎バスが到着した。僕はそれに乗り込んで工場へと向かった。仕事は夜9時から朝の5時までだった。9時前に着くと夜食が用意されていた。
夜食とはおにぎりとみそ汁のバイキングだった。食べ放題だった。初めパン工場でおにぎりとは変な取り合わせだと思った。しかし次第にその訳が分かった。パン工場で働くとパンが見たくなくなるからだ。
僕はおにぎりとみそ汁のぶっ掛け飯が好きだった。丼におにぎり二つを放り込み、その上にみそ汁をぶっ掛けるのである。それをすすり込むと幸福感に暫し満たされた。
ぶっ掛け飯を消化する間もなく、仕事が始まった。昼間、工場で作られた数々のパンを客先毎に仕分けして配送トラックに積み込むのである。細長い工場内にラインが二列に並んでいた。
新米は仕分けには加われない。先ずは積み込み作業をやらされる。4,5人が一グループとなり、ローテーションで積み込みが進められて行く。待機している間もただ休んでいる訳ではない。
工場内のラインからトラックまで橋渡しされているローラーの上に仕分けされたパンラックを流す。トラックの荷台の方が少し高くなっており、僕らが押してやらなければ、パンラックは積み込み者まで届かない。
積み込み者をサポートするのがトラックの真後ろにいる作業者だ。上り坂のローラー上を勢い良くパンラックを積み込み者に向けて流して行く。二人のタイミングが上手く合えば良い。さあ、いよいよ積み込みだ。
4に続く

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ボーダーラインワーク2

その2)
Iに伴われて行った先は新宿公園の裏手にあるボーリング場だった。そこは駅から離れた場所にあったので客は割合、少なかった。特に平日の昼間はボーリング客もまばらだった。
ボーリング旋風が巻き起こってから7、8年は経過していたにも拘らず、女子プロボーラーは未だ健在だった。そのボーリング場にも専属の女子プロがいた。近くで見るとやはり眩しかった。
僕が配属になったゲーム場からボーリングのレーンは良く見えた。そこで練習する彼女の後ろ姿に僕は見とれていた。太腿から腰にかけての曲線が何とも魅力的だった。
ボーリング場に劣らず、ゲーム場も暇だったので、Iは僕に仕事を任せてボーリング場の従業員と賭けピンボールをしていた。負けた方がジュースを奢ったり、食事を奢ったりしていた。時には金の受け渡しも見かけた。
僕は時たまボーリング場の従業員に只でゲームをさせて上げた。その見返りととして場内の欅というレストランで洋食をご馳走になったことがあった。その時、近くで女子プロが食事をしていたので僕は緊張した。
そのレストランで食べたのは一回きりで後は、地下の社員食堂で夕食を取った。日替わりメニューで美味しく量も多かった。特に若い方の栄養士は気が強かったが絶品の料理を出してくれた。
そのボーリング場にある日、人気絶頂だった北の海関が彼女二人とやって来た。僕はその時、不遜なことをした。両替に手渡された千年札を両替機に入れたは良いが、横綱に百円玉を取らせてしまったのだ。
百円玉の排出口は小さく横綱は辛うじて大き過ぎる手で百円玉を取り出していた。僕は今でも百円玉を自分で取って手渡せば良かったと後悔している。北の海関はゴム毬のようにボーリング球を転がしていた。
そのゲーム場の真中にはクレーンゲームがあった。三本の指でお菓子を摘み上げるゲームだ。その景品には煎餅が多かった。Iは僕に煎餅の山を作って取りやすいように指示するのが常だった。
下敷きになった煎餅は割れたり粉々になったりした。それを僕はビニール袋に入れて家に持ち帰った。ある晩、ビニール袋片手に新宿公園横で帰路を急いでいた僕は突然、巡視警官から呼び止められた。
「君はそのビニール袋に何を入れているんだね」僕は最初、盗みを咎められたのかと思い、びくっとした。ところが警官の尋問の意図は違っていた。ビニール袋の中にシンナーが入っているか確かめたらしい。
「最近、公園内でシンナーを吸っている若者が多いので失敬しました」と言いながら、ビニール袋の煎餅に半ば驚きながらも、訳は聴かず警官達は立ち去って行った。僕は一先ず胸を撫で下ろし、帰路に着いた。
3に続く

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ボーダーラインワーク1

その1)
大学時代のアルバイトは3、4種類に限られる。一番長い期間勤めたのがゲーム場の係員である。東京ドームが出来る前に後楽園球場一階にあった‘ロコモティブ‘と言うゲーム場だった。
何故そこを選んだか。第一にゲームが好きだったので、いつもゲームに接していられるアルバイトにひかれた。第二に大学が隣り駅で近かった。第三にそのゲーム場に馴染みがあった。
何故馴染みがあったかと言えば、浪人時代に後楽園近くの中央大学二部に通っていたからだ。駅から大学への道すがらゲーム場へは度々立ち寄った。職場の雰囲気は事前に知ることが出来た。
希望の大学にすべて落ち、予備校に通うのも気が進まなかった僕は大学の夜間に通う無理を親に聞いてもらった。基本的に夜間は勤労学生が通う場所なので、昼間何もせずに過ごしていた僕には場違いに思えた。教室でも浮いていた。
そこで大学への行き帰りに‘ロコモティブ‘で気を紛らわせた。大学の夜間は永続きせず、一年で辞める結果となり、再び大学受験に挑戦し、何とかボーダーラインの大学に滑り込んだ。
初めは希望に満ちて大学生活を始めたが、5月病にかかり授業欠席が多くなった。そこで大学以外に打ち込める新地を求めて‘ロコモティブ‘に面接に行った。幸運にもすんなりアルバイトの道が開けた。
そこでの仕事は楽しかった。いつも好きなゲームに接していられるのが嬉しくて仕方なかった。ところが人間関係と言う脅威がジワジワと追い迫って来ていた。Tという年配従業員の脅威だった。
僕はいつからかTに目の敵にされていた。様々な小言を言われ、嫌な仕事を回された。彼の態度が許せなかったのは不公平なことだった。僕より一学年上の東大生のバイトには何も言わなかったのだ。
東大生が暇な時間にゲームをしていても見て見ぬふりをしていたTだが、僕が合間を縫ってゲームをするとすかさず、「忙しいから遊びは止めろ」と怒鳴った。そして掃除道具を渡されるのが落ちだった。
職場では仕事のきつさより人間関係の煩わしさを知った最初の体験だったが、とある経緯から後楽園球場を去る羽目になった。それはTに劣らず意地の悪いIに関係した出来事だった。
球場下はアルバイトが余って来たので、ある日、所長が僕に声を掛けた。「A君、悪いがI君がいる新宿のボーリング場へ手伝いに行ってくれないか」それは依頼だが命令だった。恐らくIが図ったのだろう。
僕は最初、Iと二人になるのがこわかった。伝助のように口の周りに髭を生やしていたし、何と言ってもボクサー崩れだったからだ。二回戦ボーイで続かず、ゲーム場の従業員に回されたと聞いていた。しかも喧嘩早かった。
僕は彼と二人でいると何を話して良いか分からず、黙っているだけだった。彼が見掛けより善人だと知ったのは、新宿駅構内の立ち食い蕎麦屋で天ぷら蕎麦を奢ってもらってからだった。
2に続く

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啓示 最終回

最終回)
「あなたは結局、注意してたけど相手のオートバイに最後まで気がつかなかったってことおでしょ」
「簡単に言えばそうだよ。何も見えなかったにも拘らず、相手がそこに存在していたことが不思議だったんだ。もし、そうであれば僕らは眼に見える現象だけで、すべてを判断したら失敗する事も有り得ると初めて気づいたんだ」
「それは死角ってことかしらねえ。教習所で習ったことがあるわ」
「死角という言葉だけでは説明できないんだ。仮にもそこは網のフェンスだけが伸びていて視界は開けていた筈なので死角ではないと思う。いずれにせよ、僕はその時点から人間の感覚は非常に限定されていると考えざるを得なくなった」



「それであなたは自分に対して自信を失ったってわけね。何となく分かったわ」M子はやっと納得した様子だった。
「やっと分かってくれたかい」Hは少し疲れた様子だった。
「自信を失ったことと神様と接触する力とはどんな関係があるの」M子は更に続けた。
「僕は生まれて初めて自分を完全に捨てるしかないと心に誓ったんだ。自分をすてその替わりに心に神を受け入れるしかないと分かったんだ」
「聖書にも信じる者の心には神がいるって書かれてるけど、あたしは心の中にまで神の存在を意識したことはないんだなあ。神は自分の外、例えば空にいたり、自然の中にいたりするとしか考えられないんだもの」
「勿論、自然の中に神がいるのは確かだよ。でも重要なのは心の中にいる神と出会うことなんだよ。心にいる神を認められれば、いつでも神と対話することができるんだ。僕は自分を捨てた瞬間から心に神が入り込んで来たのを感じたんだ」
「と言うことは自分を捨てない限り心の内の神様には出会えないって訳ね。あたしも早く神様に出会いたいわ。あなただけずるいわよ」M子は少しむくれた。
「僕も努力して勝ち取った訳じゃない。神から与えられた機会が僕を変えたんだよ。君も求めていれば必ず神に巡り会う機会は得られるよ」
「本当にそう。あたしもあなたみたいに早く心の中にいる神様と話したいなあ」M子は羨ましそうにHを見た。

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啓示5

その5)
H氏は家に帰って、妻M子に転職のことを相談した。彼女は以前から彼にB病院勤務を勧めていたが、なかなか彼をその気にさせられなかった。それがこうあっさりと彼の心境が変化したことに驚き怪しんだ。
「あなた一体、何があったの。急に病院勤務を決心するなんて」
「僕は昨夜、夢で啓示を受けたんで、さっき裏山でそれを確かめて来たのさ」
「確かめるって、まさかあなた神様と話して来たんじゃないでしょうね」M子は恐る恐る聞いた。
「そうさ僕は神と話して来た。その場には何と悪魔もいた。僕は夢が本当だったことを知ったのさ」Hは平然としていた。
「あなた、そんな力どこで身に着けたの、いつからなの」M子は好奇心に満たされた。
「それは僕が人身事故を起こした直後からさ」Hはその時の情景がまざまざと頭に浮かんだ。
「それじゃ2,3ヶ月前の事ね。一体あなたの心に何が起こったって言うの」
「うん、あの時、僕は自分に対する自信を全く失ったんだ」
「自信を失うって、どう変わったわけ」
「その時まで僕は車の運転に自信を持っていた。普通に運転していれば事故を起こす訳はないと自負していた。それが人身事故を起こしてから僕は自分自身にに疑いの目を向け始めたんだ。前方に注意してたにも拘らず、対向してくるオートバイが全く目に入らなかった事にショックを覚えた。緑の網フェンスの陰から、いきなりオートバイが飛び出し、車の左ボンネットにぶつかった時には自分の眼が信じられなかった。全く夢でも見ているに等しかった」
「あなた、本当にオートバイの近づく気配も感じなかったわけなの」M子は不思議そうだった。
「そうさ、音も聞こえなければ、その影さえも認められなかったんだ。だから僕には衝突を避ける術はなかった」
「それがあなたの運転に対する自信とどう結び付くの」彼女は物分りが悪そうだった。
「つまりだな、僕は信頼していた視覚という感覚からさえ裏切られたような気分だったのさ」彼は少し感情的になった。
「そう声を荒げないでよね。あなた、すぐムキになるんだから」彼女は口をとがらせた。
「別に怒ってないだろ。君がなかなか分からないから説明のしようがなかったんだ」
最終回に続く

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啓示4

その4)
神は中空の雲の動きを見ながら暫し押し黙った。Hと悪魔もそれに従った。徐に神は再び口を開いた。
「よし、わしは決めたぞ。HをB病院に送り込むことにしよう。Hに注いだわしの力で、そのB病院がどれだけわしの望む働きをするようになるか見るとしよう」神は新提案を持ち出した。
「B病院といやあ、あるキリスト教組織が運営する病院じゃないっすか。俺はそんな場所へは入り込みたくねえなあ」悪魔は強く反対した。
「わしは何もお前を送り込むつもりはないんじゃ。お前はただ傍観してれば良いだけじゃ。お前さんに下手に手出しでもされようものなら、職員の魂は益々わしから離れ去るだけじゃからのう」
「僕はいつからその病院に入り込めば宜しいのですか。今は既に勤めている会社がありますというのに」Hは様々な思いを巡らした。
「Hよ、おぬしは何も悩まんで宜しい。わしが凡ての段取りをつける。おぬしはわしの指示に従って動けばそれで良いのじゃ」
「僕は病院も医者も嫌いなんですよ。病人に興味がある訳じゃないですし、医者はやたらと威張ってますからね」
「それでもおぬしはもうすぐ50歳を迎えるじゃろ。今を逃したら一生、病院勤めはできんぞ。これが最後のチャンスなのじゃ。病院は安定しとるから定年まで勤めれば楽であるぞ」
「そうですよ、Hさん、病院じゃ綺麗な看護婦さんが多いですぜ。男より女が多い職場なんて魅力的だなあ。あっしが替わりに行きてえぐらいですぜ。何とも羨ましい。毎日、白衣の天使に囲まれて仕事し、アフターファイブはアバンチュールなんて涎が出そうだぜ」悪魔は眼をうっとりさせ妄想の世界に浸っていた。
「おい悪魔、余計なことは言わんでよろしい。Hに変な下心を持たせたらいかん。それでなくとも彼は誘惑にかかりやすいタイプじゃからの」神は心配そうに腕組みをした。
「あ、僕は何だか病院に行く気分になって来ましたよ。目の前がバラ色になって来ました」Hは嬉しそうに鼻の下を長くした。
「現金な奴だな。色と金に惑わされておる。もう一つ良い知らせがあるぞ。病院は10億円かけて建て直したばかりで、おぬしは新品の建物の中で仕事ができるのじゃ」
「え本当ですか、それは良いタイミングですね」
「そうと決まったら、わしがすべての段取りをつける。おぬしはさっそくI事務長と面接しなさい。必ず適当なポストが与えられよう」そう言って神は忽然と姿を消した。
「じゃあ、あっしもこの辺で戻りまっせ。Hさん、武勇伝を待ってますぜ」悪魔もすぐに姿を消した。
5に続く

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啓示3

その3)
「神様、人々の心からあなたが消え去ったことは不満ではありませんか」
「大いに不満なんじゃ。その不満をどこにもぶつけられなくて困っておる」
「それは社会の問題でしょうか。家庭の問題でしょうか」
「どちらも問題じゃよ。戦前、日本にはまがりなりにも神を崇拝するという心はあった。人間を超えた存在があることを意識するだけで良いのじゃ。それが今はない」神は深い溜息をついた。
「全くです。今の日本で道徳教育や宗教教育はタブーと見られてますからね。人間は自由を謳歌するあまり、自信を通り越して過信に至ってますね」
「わしは人間に心という神に直結した器官を与えた。それにも拘らず心を悪魔に売り渡す輩が何と多いことか」
神が悪魔という言葉を発するが早いか、この暑い陽気にも拘らず黒ずくめの悪魔がどこからともなく現われた。
「神様、人の心をあっしが奪い取るような言い掛かりは止めて下せえよ。あっしは人間に有意義な機会は提供しますが、心や魂を奪ったりはしやしませんぜ。そんなことをすりゃあ、悪魔会議にかけられて追放されるのが落ちでさあ」
「おお悪魔よ、いつの間に現われよった。お前さんはいつでも前触れもなく突然、わしらの前に現われよるから心臓にわるいわな」
「本当ですよ、悪魔さんは思い掛けない時に現われますよね。僕の身体が不調な時とか、気分が沈んでいる時を選んで心に入り込むから油断も隙もありませんよ。神様、この方達を取り締まる訳にはいかないのですか」H氏は困り果てた様子だった。
「わしにも有効な手立てはないんじゃよ。悪い行為を行なった後なら現行犯ででも取り押さえることができるのじゃが、人の心に悪を吹き込むだけじゃ、さすがのわしでも有効な対策は打てんのじゃ」
「そりゃそうさ。あっしらは人間達に知恵を授けているんだぜ。それをどう生かすかはあんたらの勝手さ。心に悪が入り込んでも、それを撃破する者もいれば、悪の言いなりになる奴もいる。それは全く個人の自由さ。神様もあっしらもあんたらから勝手に自由を奪う訳にはいかんのよ」悪魔はいかにも煩わしそうに尻尾を左右に振り動かした。
「悪魔さん、あなたが現代人を神様から遠ざけている元凶でしょう」Hは単刀直入に突っ込んだ。
「何を言うか、人間の分際で。あっしに責任を振り向けるとはおぬし良い度胸しておるな」悪魔は悪びれもせずにせせら笑った。
「だってあなたはよく僕らの心に入り込んで、神様から遠ざかるように画策してるじゃないですか」Hも強気だった。
「おい悪魔、それは本当か。お前がわしの権威を否定するとは聞き捨てならんぞ。今後はお前の行動もつぶさにチェックせなあいかんな」神は白い髭を指ですいた。
「神様、そこまで眼を光らせないで下さいまし。そんな事をした日にゃ、あなたの仕事は倍増し身体がいくつあっても足りなくなりますぜ。あなたの身体は一つ、しかもわしらの仲間はゴマンといることをお忘れなく」悪魔は不敵な笑みを浮かべた。
「神様、悪魔の言い分に納得されてはいけませんよ」Hは盛んに加勢した。
「いや悪魔の奴は口が立つから時にわしもタジタジになるんじゃ。困ったもんじゃ」
「神様が困ってちゃ、僕らに救いはないじゃないですか」Hは身の細る思いだった。
4に続く
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啓示2

その2)
「それでは救われる者は救われ、救いに与らない者はあなたを知らないまま、生涯を終わっても構わないとおっしゃるのですか」
「うん、それも致し方ないじゃろな。わしを知ろうと欲しない者に知らせようとするほど困難なことはないからの」神は諦観していた。
「神様は意外と冷めていらっしゃるのですね。私はもっと燃えている方だと思ってました」
「以前はもっと燃えておったのじゃ。それでも努力が報われないとなれば意欲は下がるものよ」
「神様にも意欲が関係していたとは知りませんでした」
「わしはイエスを最後の手段としてこの世に送ったので、その後の展開を良く考えておらなかったんじゃ」
「神様ともあろうお方が考えられないこともあるのですか」Hは少し驚いた風だった。
「わしも完全のように見えるが、完全でないとこもあるんじゃ。いかんせん人間という、ちと失敗作を作り上げたのもわしじゃからの。完璧に作った筈じゃったが、彼ら創造物にわしさえもシカとされるとは予想だにしなかったわい」神は苦渋の表情をした。
「神様でも誤算があると分かってホッとしました。神様は完璧で悪いのは悪魔だと思っていました」
「わしを完璧と見なすには当然、悪魔の存在も必要じゃった。彼らがいたからこそ、わしの負の部分をすべて彼らが肩代わりしてくれたのじゃ。人類の失敗もエデンの園での悪魔の囁きが考えられておるからの」
「その通りです。神様が創られた人間は完全だったにも拘らず、蛇の形をした悪魔が人間に悪の道を示したと信じていました」
「それはある意味、正解なのじゃよ。でも良く考えれば蛇を創ったのもわしなんじゃ。つまりわしは正義の神じゃが、悪魔の行為も管轄するのが勤めなのじゃ」
3に続く


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