逆転1

その1)
K氏はその日も慢性的な残業をこなし、家に戻ると遅い夕食を取っていた。3歳になる子供はもう既に寝ていた。普段、彼は子供の寝顔しか見たことはなかった。
妻は子供と食事を済ませていたのでテーブルの上にはK氏の食事だけが並べられていた。残業して腹が減り過ぎていたせいか彼は余り食欲を感じなかった。それでも無理に箸を運び天麩羅のイカを口に入れた瞬間、強烈な油の臭いが鼻をついた。変に思いながらもそのままかみ続けていると胸にむかつきを覚えた。ほぼ同時に目の前が揺れていた。思わず上を見ると天井が回り始めた。
咄嗟に身の危険を感じたK氏は食べるのを止め、絨毯の上にうつぶした。眼をつぶっても頭の中が回転しているのを感じていた。異変に気づいた妻がすぐに駆け寄って来た。
「あなた、どうされたの、大丈夫」
「うーん、ちょっと眩暈がして気持ちが悪いんだ」
「仕事にお疲れなんじゃないですか」
「そうだね、今晩はもう寝るとするよ」
K氏は立ちあがって寝室へ行こうとした途端、再び吐き気と眩暈に襲われた。すぐにしゃがみ込んで吐き気が収まるまで待った。先ずはトイレに行く事が先決だった。トイレの便座の前にしゃがみ込んでも何も吐く物はなかった。喉の奥から酸っぱい胃液が出て来るのを感じただけだ。K氏はやっとベッドに横になると、いきなり脳裏にその日会社で起こった様々な出来事が次々に現われた。
「K君、後で社長室まで来たまえ」S常務は昼食後のまどろみを覚ますようにK氏に声を掛けた。彼はそれが何の呼び出しか分かっていた。彼は最近、幾つかの失敗を重ねていた。健康グッズカタログ500部を3品目の価格間違いに気づかずに刷り上げてしまった事。主力の輸入健康枕の欠品を引き起こしてしまった事。この二つの失敗により彼は管理者としての責任を問われるものと覚悟していた。
この健康用品卸会社の基調に流れる風潮は減点主義であった。それはワンマン社長の性格がそのまま反映されていた。この会社自体が父親の出資金で出来た彼の所有物であった。父親も老舗の出版会社の社長であった関係で彼は全く金に不自由していなかった。まるで道楽のようにして健康用品会社が設立されたのだ。
社内で彼に意見する者は誰もいなかった。S常務でさえ彼の言いなりだった。下手に反対した者は首を切られるのが関の山だったからだ。彼は手当たり次第、独断で輸入し、販売員に売らせた。倉庫は売れ残った商品が山積みされていた。
社長は自分に甘く人に厳しかった。輸入に失敗しても売れない原因を販売員に押し付けた。彼は社員の失敗に目ざとく反応した。彼にとって失敗する社員とは彼の所有物である会社の利益を食い潰す元凶と見なされていたからだ。
「K課長、あなたは今回の度重なる失敗で会社に多大な損害をもたらしました。何らかの方法で償ってもらうしかありませんね」S常務は社長に代わって責任を追求した。社長は常務を後ろで操り、表に出ることはほとんどなかった。彼は表面上は良い社長でいたかったのだ。
「はあ、今回は色々とご迷惑をお掛け致しました」K氏はひたすら頭を下げた。
「先ず始末書を提出して下さい。減給処分は免れないでしょう」S常務は事務的に言い放った。
会社に損害をもたらせばそれを金銭で償うというのがこの会社の基本姿勢だった。それでも追いつかない時は失敗を犯した者は切り捨てられて行った。自分の身と財産だけを守ろうとするS社長にとって会社に損失をもたらす者に制裁を加えるのは当然の帰結であった。
2に続く

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