自然の中に

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自我と超自我17

その17)
(親子の魂の絆)
小学生まで子供は親との魂の絆を強烈なまでに、慕い求めます。親としては十二、三年の期間、いかに我が子の求めに応じられるかどうかに心を注ぎたいものです。子供の求めに応じた度合いにより、その後の親子間の信頼関係が決定付けられるからです。
身近な例で、子供が親と心の結び付きを確かなものにしたいとの思いは、親との遊びに表われます。子供時代、友達と遊ぶことも大事ですが、親と遊ぶことがどれだけ重要か、一言では言い尽くせません。子供が親と遊んだ記憶は終生、心に残り、親子の絆を下支えしているのです。
子供は親と直接、遊ばなくとも、遊んでいる自分の近くに親がいて見守ってくれているだけでも満足するものです。子供が一番嫌うのは自分一人で遊び、それに親が全く見向きもせず、関心さえ示さないことです。いくら高価なゲームソフトを子供に与えても、子供が一人でゲームに向かっていれば、やがて飽きて空しさを感じることになるのです。
子供は高価なゲーム機や高価なゲームソフトに一時的に魅了されることはあっても、永続きはしません。そこに親との心のつながりがなければ、無味乾燥なのです。例え500円のトランプであっても、一緒に遊んでくれる親が身近にいた方が、何倍も意味のあることなのです。
TVゲームは対戦もできますが、一人遊びが主です。対戦といえども、複雑になったTVゲームを介しての対戦は相手の心の動きが直接、伝わって来ません。トランプやオセロのような単純なゲームであれば、相手の心の動きを読みながら、カードを出したり、駒を進めたりもできます。ところがTVゲームとなるとゲームに内蔵されたICチップとの係わりが複雑過ぎるために、対戦相手の心の動きにまで気が回らないのです。
ICチップはいくら複雑にできていようと、その動きに子供は飽きます。そこでゲームソフトを次から次へと買い替えて、目新しさだけを追い求めます。ところがそこに求める青い鳥はいないのです。
子供にとっての青い鳥は、一緒にゲームを楽しんでくれる親の心の中にいます。それもトランプのような単純なゲームで良いのです。子供としては親と時間を共有したい。共有した時間の中で魂の触れ合いを楽しみたいのです。そしてできれば、ゲームに勝ち親を打ち負かすことで、自分の力を確認したいのです。
中学になれば子供は親との遊びを卒業します。子どもが親を頼って遊びをせがむのは、ほんのわずかな期間だけなのです。子供の魂が独り立ちする前に、親の魂との絆を強固なものにしておきたいという気持ちの表われでしょう。小学生を持つ親としては、子供と過ごす貴重な時間を大事にしたいものです。
昔であれば、相撲を取ったりレスリングをしたりして、親子はスキンシップを通して心の触れ合いも手に入れられました。ところが狭い住宅事情ではそれもままなりません。せめてゲームという手段でも、遊びを通して心を触れ合わせるしかないのです。
超自我に直結した遊び心同士が触れ合うことで、親と子供の間には以心伝心の空気が形成されます。子供が自立し、広い世界に羽ばたくためには、親と一緒に築いた以心伝心の環境が欠かせません。超自我同士が強固に結び付いた親子の関係こそ、子供が求めて止まないものなのです。

親子が無心で遊ぶ時には二つの個体は完全に一体となる。魂とも呼べる超自我同士が調和して遊びに集中する。金銭のやり取りが介在する博打を考慮しない単純な娯楽としての遊びは動物の世界でも見られるが、人間の遊びは高度化している。仕事のように何ら生産性は伴わないが心身を活発化する上では有効な手段となり得る。
18に続く
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夢の検証380

夢の続き

携帯ゲームを実地でやっているので行ってみた。訳が分からず何ゲームか終わって精算すると二千三百円と言われた。財布を見ると千円札が一枚しかなかった。他の札はドル札だった。ドル札があふれていた。よく探すと万札があったので支払いを済ませた。
ドル札を両替しようと街を歩き回った。両替機のあるスーパーを思い出したので探したが遂に見つからなかった。

検証380
携帯ゲームにはまってしまった。蟻塚というゲームだ。このゲームが実践されたらどんなだろう。結構金のかかるゲームだ。カード払いなので使った気がしないのが恐い。
ドル札などここ何十年も使っていない。かつて東南アジアに出張した時に持って行った。ドル札は大変重宝した。

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自我と超自我16

その16)
(信頼関係の喪失)
父親と私は幼少時より強い信頼関係で結ばれていると思っていました。父は自分の価値観を我が子に押し付けることなく、私が個性を思う存分生かせるよう生活環境を整えてくれていたからです。一般の父子関係には見られない程の緊密な結び付きがあったと信じていました。
ところが男同士特有の不和は中学時代に襲って来ました。私が自分の得意を自慢する事に対し、父が不快感を示しているのを察知したからです。私は父と魂の根源において太い糸で結ばれていたとその時まで信じていました。でも、そうではないらしいことに気づき始めたのです。父が私の能力に妬みを感じる事がある事実に気づいたのです。その思いは二人の間に、消える事のない深い溝を作ったのです。
さらに大学進学に際して、私は父との価値観の違いを通して魂の断絶を経験しました。父が推した大学は、私が心底行きたかった大学とは違っていたことが後々分かったのです。父の要望を優先するままに入学した当時、私は自分の本心を見失っていたのです。
父の価値観は名声と社会的評価を重んじる、一般の考えに染まっていました。私も入学当時はその価値観にすがり付き、新たな大学生活が始まりました。ところが私の超自我はその価値観に納得してはいませんでした。表面的で見せかけを重視する価値観に翻弄された大学決定に対し、私の超自我は反旗を翻しました。そして結末は、大学中退という結果に終わったのです。
この様に、父子が信頼関係で結ばれていても、どちらかが超自我から遊離した価値観に毒されていれば、信頼関係はいずれ崩壊する危険をはらんでいます。大学選択時点で、父親の自我は私に世俗的な価値観を強要しました。一時的にその価値観を受け入れた私の自我は超自我と葛藤せざるを得なかったのです。最終的に大学中退という強行手段を取ることで、私の自我は卒業を望む父の自我と訣別したのです。その結果、私の自我は再び超自我との調和を手にしたのです。
父親と決裂した私は父子の信頼関係を取り戻す事ができたのでしょうか。私たちの自我同士は決裂しましたが、幸い超自我同士はつながっていたので、私が仕事を始めて何年か後には父と和解しました。
たとえ自我同士が決裂しても、その時までに二人の間に超自我同士が交流し合えるような太い魂同士の絆が結ばれていれば、やがて和解の機会は巡り来るのです。子供が成人する年代に達する以前に、親子の魂の絆が結束されてさえいれば、表面的な二人の価値観の違いはさして問題とはならないのです。一時的に信頼関係が崩されたとしても、やがてお互いの個性の違いを認め合える時期が来るのです。

個人の価値観は社会環境に影響されている。自我は永年培われた価値観に基づいて判断を下す。それが意思となりなり行動を引き起こす。親子の価値観はある時期までは同じ路線を進む。生きている環境が同じならばそれは極当然だ。親の価値観は時期が来れば固定される。ところが子の価値観は思春期に大きな変革を経験する。
親子の価値観がずれるのは生きている時代環境が変化していることも原因しているが、思春期には子の自我が急速に発展し独自の価値観を形成する段階に到達したことが最大の要因となる。親の自我は社会での安定を望む。子の自我は社会での安定より自己の欲求を重視する。
17に続く

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夢の検証379

夢の続き

高校の教室でサイドリーダーの勉強をしていた。帰りに本屋でその本を買おうと思って友達の車に乗せてもらった。高架橋を渡ると地下鉄の入口があったのでおろしてもらった。そこは青山一丁目だった。
地下鉄の入口は喫茶店の中にあった。探している内に迷ってしまった。すると先の友達に会い一緒に入口を探したが見つからず一先ず外に出ることにした。

検証379
高校ではあまり良い思いではない。学校自体に興味はなかった。一度退学も考えたほどだった。本屋には良く行った。主に買った本は参考書だった。数学・物理が主だった。友達の車とは恐らくMの車だろう。地下鉄の青山一丁目にも馴染みがある。
地下鉄の入り口があるとは何と大きな喫茶店だろう。さらに迷うとは広大な広さだ。友達と探しても見つからないとは何とも不甲斐ない。外に出ると見つかる場合が多い。

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自我と超自我15

その15)
(親との信頼関係)
信頼とは心から相手に頼ることです。宗教を通して私たちは神に信頼する心を知ります。子供にとっては親に信頼する気持ちが大事です。親としては子供の信頼を決して裏切らないことが重要です。
純真な子供は大人と違い、目に見えない存在も容易に信じます。子供たちは親を信頼するのと同じ気持ちで、サンタクロースや神や妖精の存在をも信じるのです。
親に信頼し、見えない存在をも信ずる子供の心は、自分の潜在能力にも疑いを持っていません。自分の心の奥底に存在する、自然と直結した未知の力を信じた子供は自信に満ち溢れています。恐らくどんな困難が、その後の人生で襲って来ても耐えられるだけの芯の強さが備えられているのです。
子供は成長と共に、目に見えないサンタクロースや神や妖精の存在を信じなくなります。小学校高学年からその傾向は始まるようです。その時期、親への信頼さえも揺るぎ始めるのです。まして学校の教師や周りの社会に対する信頼は消失するどころか、ともすればそれらの権威に対して反抗する態度さえ芽生え始めるのです。
親との信頼関係を築き、自信を持っている子供は非行に走りません。たとえ、いじめに遭っても自殺に追い込まれることもありません。苦しくとも魂の拠り所があるからです。自分の存在が親にとっても貴重であることを日々、感じてさえいれば直接言葉を交わす機会が少ないとしても、子供の超自我と親の超自我は相呼応しているのです。親子の超自我は元々、自然という根源から派生し、緊密につながっているものだからです。
その信頼関係はどのような場合に破局を迎えるのでしょうか。子供の方が親に失望するケースが多いようです。子供が親の価値観について行けなくなるのです。親と子は生きた時代が30年以上も違うことが多いので、お互いの価値観は違って当然とも言えます。ところが、子供は成長するに従い、親が無理やり自分たちの価値観を押し付けて来ると感じる時が来るのです。目指す学校へのレールを敷き、受験勉強にも血眼になって強制する親に対し、子供は失望するのです。
また強固な信頼関係で結ばれていた親子もたった一言の言葉のやり取りで、信頼関係が崩れ去ることもあります。子供が真実を言ったにも拘らず、親がそれを信じない場合です。
私は中学時代に少し荒れていて、家庭内でたまに暴力を振るう事がありました。ある時、母親と言い争いになった末、私は悔しまぎれに彼女の脇腹を右手の拳て殴ったのです。私は飽くまで力を大分、加減して殴ったつもりでいました。後日、当時の事を語り合った機会に、母は必ずや私が力任せに渾身の力で殴ったと言って聞きませんでした。私が手加減したと言っても、全く聞く耳を持たなかったのです。
私と母との間には、この一件で信頼関係に深い溝ができたのです。今はもう母もこの世にはいませんが、私が彼女を力任せに殴ったという誤解は死ぬまで解けずに、二人の関係は終わってしまったのです。深く結ばれたように見える、親子の信頼関係でさえも、実はかなり脆いものなのです。

親は子が出会う最初の個体である。自我が発達する前の子は親の自我に従属している。親子のベクトルはほぼ一致しているので親子の衝突は起きない。ところが子の自我は徐々に発達して行く。そうなると親子の自我同士の対立が発生する。
子の自我に対立するようになった親の自我は子供の行動のみで判断を下すようになる。行動と言う表現としての結果でしか自我が発する意志を見極めることができないからである。その判断は子供の自我そのものを見るのではなく、親自身の自我が投影された結果に基づいているので親子間には誤解が生ずることになる。
16に続く
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夢の検証378

夢の続き

自転車で郊外を走っていた。坂道を上っていると空気が抜けてペダルが急に重くなった。そこで自転車を下り歩いて行った。パンクを直す金もなかった。歩いていると海岸に出た。岩場を歩いていると潮が満ち靴がびしょ濡れになった。
帰り道が分からなくなり線路際に出た。ショッピングセンターの横を通り抜けるとスナック街で先は行き止まりだった。戻るとB病院のSさんにあった。線路を越して街に出た。

検証378
以前は自転車は日常の必需品だった。パンクするとペダルが重くなりゴツゴツした感触が伝わって来る。放って置くとタイヤが駄目になる。だから歩いて押した方が良い。海岸になどここ何年も行っていない。海が見たい。
帰り道が分からなくなるのは良くあるパターンだ。色々な街が登場するが一度どこかで見た風景が多い。B病院には辞めてから全く行っていない。そこの人々には興味がなくなった。

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