不安1

不安1.jpg
duck.JPG
nice!(0)  コメント(0) 

生きにくい37

その37)
(欲求充足と障害)
この世では欲求充足は思うに任せません。特に性欲には多くの制約が付きまといます。もし欲求を思うがままに満たそうとすれば、あなたは必ずや障害にぶつかります。障害にぶつからないようにするには、欲求を抑え、我慢するしかありません。我慢し続ければ、あなたはストレスに見舞われます。
私たちには障害にぶつかって、トラブルに巻き込まれるか、または欲求を抑えてストレスを抱え込むか、二つの選択肢しかないのでしょうか。欲求を充足させつつ、ストレスも抱かない第三の選択肢はないものでしょうか。
自己の欲求を満たしながらも、社会の中で調和の内に毎日を過ごす方法があるはずです。それは自己を常に省みながら、軌道修正して行く方法です。それでは自己内省の話に進みましょう。
38に続く

nice!(0)  コメント(0) 

生きにくい37

その37)
(欲求充足と障害)
この世では欲求充足は思うに任せません。特に性欲には多くの制約が付きまといます。もし欲求を思うがままに満たそうとすれば、あなたは必ずや障害にぶつかります。障害にぶつからないようにするには、欲求を抑え、我慢するしかありません。我慢し続ければ、あなたはストレスに見舞われます。
私たちには障害にぶつかって、トラブルに巻き込まれるか、または欲求を抑えてストレスを抱え込むか、二つの選択肢しかないのでしょうか。欲求を充足させつつ、ストレスも抱かない第三の選択肢はないものでしょうか。
自己の欲求を満たしながらも、社会の中で調和の内に毎日を過ごす方法があるはずです。それは自己を常に省みながら、軌道修正して行く方法です。それでは自己内省の話に進みましょう。
38に続く
nice!(0)  コメント(0) 

生きにくい36

その36)
(道徳不在)
今、教育基本法改正が国で論議されています。国は国民に愛国心を目覚めさせ、道徳心を向上させようとしているのでしょうか。
戦前の日本では、神格としての天皇を頂点とした神道国家を礎としていました。その一環として教育勅語が唱えられていました。
また明治の国民に根付いていたのは、儒教の教えです。その中では思いやりを中心とした「人に迷惑をかけない」思想が説かれていました。
私は神道を国家宗教に復活せよと言うつもりはありません。また教育勅語を唱えて、人心を一つにする国策を支持するつもりもありません。ただ、せめて今の日本に儒教が説く「人に迷惑をかけない」思いが浸透すれば良いと考えるのです。さらに、その思いが発展して「人のために何かして上げる」思いにまで高揚する道徳心が、子供たちのうちから育ってくれれば良いと望むものです。
近年、むごたらしい事件ばかりが発生しています。犯人の動機は自分の欲求を満たすことだけなのです。人の迷惑は眼中にない。自分さえ良ければ、何をしても構わないと言う「自分本位」な思いに満たされているのです。日本人から道徳心は消え去ってしまったのでしょうか。
メディアで報道される犯人は、確かに道徳の歯車が狂っているようです。ところが正常と思われている私たちでさえも、いつ歯車が狂わないとも限らないのです。油断をしてはいけません。
最近、小学校男児をひき逃げした犯人が捕まりました。交通事故は注意していても、起こる場合があるので、一概に運転手を責めるわけにはいきません。ところが今回、事故を起こした男は、男児の自転車とぶつかって、そのまま逃げただけでなく、事故の証拠を隠そうとさえしました。自転車を隠した上、重傷の男児を現場から遠く運び去って、草むらに隠したのです。
どういう心境で、そこまでしたかは分かりません。自分が犯した罪を隠せば済むとでも思ったのでしょうか。火急の状況でも、犯人は自分の身の安全しか考えなかったのです。捕まったら困るという意識しかなかったのです。彼は重傷を負った男児の痛みはおろか、心配する親の気持ちさえも分からなかったのです。
人間とはここまで自分勝手になれるものかと、驚かされるほどの事件が頻発しています。道徳以前の問題かも知れません。人間性の問題なのです。人の痛みを自分の痛みとして捉えられない心の壁が、私たちを覆い始めて来たようです。
37に続く
nice!(0)  コメント(0) 

生きにくい35

その35)
(宗教)
国によっては、宗教が人々に道徳観念を根付かせています。欧米諸国ではキリスト教徒が多いですし、中近東や東南アジアにはイスラム教徒が多数います。日本には様々な宗教が入り込んではいますが、比率としては仏教系が多いのでしょう。
離婚に大らかなイスラム教でも、婚前交渉は厳しく禁じられています。若い男女の自由交際さえ禁じられているぐらいで、見つかると処罰の対象になります。また、カトリックでは避妊・中絶を認めていないので、交渉する男女は必然的に夫婦に限られてしまうことになります。
キリスト教国である、アメリカで離婚が多いのは何故でしょうか。
アメリカでは自由恋愛が多いので、男は女性を外見で選ぶ傾向が強いのでしょう。結婚したては満足を得られますが、その内、外見で選んだ相手に飽きて来るのです。同時に性格の不一致なども顕わになるのです。デートでは、相手の性格の一部しか知ることはできないので、結婚当初はお互い上手く行っているように見えます。ところが、お互いの本性が現われて来るのは、結婚二年目以降が多いのです。
何故なら、結婚当初はお互い遠慮して、地を出すことはないからです。
キリスト教では本来、離婚は慎むべきなのにも拘らず、アメリカで離婚が多いのは、個人レベルでキリスト教精神が深く浸透していないからなのでしょう。相手の外見に飽き、性格の不一致が顕わになった途端に離婚に踏み切ってしまうのです。
セックスに関する限り男は一人の女性で我慢できはしないのです。女性は同一の男にしがみ付きますが、男の性欲は一人の女性に限定することは不可能です。更にセックスを求めるのは女性ではなく、男の方です。結婚の意義をセックスに求め過ぎるアメリカで離婚が多いのは必然の結果なのです。
宗教が国教として認められていなければ、人民に対する強制力は乏しいのです。キリスト教が国教に近いアメリカでさえも離婚や犯罪が増えています。まして日本には国教がありません。特に若者は宗教に関心がありません。そのため、日本で離婚や犯罪が増えているのは当然のことなのです。
全体として見ても、日本人には道徳心が乏しくなっています。国や社会に道徳教育を押し付けても、子供が全うに育つわけではないのです。何よりも道徳心を育てるのは、家庭をおいて他にありません。
36に続く

nice!(0)  コメント(0) 

生きにくい34

その34)
(社会的制約)
社会が平安に保たれるには、私たち男が性欲を抑えるしかないのです。性欲を欲しいままにしたら、社会は混乱のるつぼと化すでしょう。
上述したように、性欲に関して女性は受け身であり、しかも対象を一人に限定する傾向が強いのです。従って女性が社会的混乱を招くことは稀です。社会的混乱を招く張本人は何と言っても、私たち男なのです。
道徳も宗教も男たちの性欲には手を焼いて来ました。イエスはかつて言いました。「女性を見て欲情を起こす者は、その眼を抉り出された方が良い」この言葉をそのまま取り入れたら、世の男たちの目は殆どすべて抉り出されることになるのです。
仏教でも色欲は強く戒められて来ました。多くの僧が山にこもって修業を積むのは、女体の誘惑から遠ざかるためです。ところが山にこもったからと言って、性欲が全く消え去るわけではありません。
私たち男が良く経験するように、登山最中は女性から遠ざかり、性欲を感じる機会はありません。ところが登山中は鳴りを潜めていた性欲も、下界に下り、女性に出会った瞬間、再び燃え上がります。久々に眼にする女性は、誰もが美しく見えてしまうものです。
山に長期間、こもっていたら状況はさらに深刻です。下山して初めに出会った女性は誰もが、きっと美しく見えることでしょう。そして女性への欲情は一挙に燃え上がるのです。
こうしたことから明らかなように、男は女性を顔とスタイル、つまり外見だけで選ぶ傾向にあります。ですから男は好みの女性に出会えば、一人で勝手にその気になるものなのです。男を野放図にして置いたら、危険極まりないのです。
社会は男に様々な規制を設けなくてはならなかったのです。一夫一婦制は、元はと言えば、キリスト教の影響でしょうが、男を一人の女性に制約しておく社会システムです。ただし、この制約は人為的に作られたものなので、全面的に従い切れない男たちも数多くいることは確かです。
35に続く
nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。