神からの御言葉

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人生の失敗30

第30回
アダムとイブのもう一つの罪
二人は神との約束を破っただけではなかった。嘘をつき言い訳をした。二人は初め、「木の実は食べてない」と嘘を言った。神に追及されるとアダムは「イブに唆された」と言い訳をした。またイブは「蛇が唆した」と言い訳をした。
言い訳をするのは自分が悪いことをしているのを自覚していたからだ。蛇は恐らく好奇心の象徴なのだろう。女は好奇心に負けて自我の思うままに振る舞ってしまった。そして男は女の誘うままに自我に従ってしまった。
この時点で人間だけが持つ自我は一人歩きをし出した。自我は神と言う潜在意識下の良心の叫びさえ無視するようになったのだ。そして人類は悪の道を辿り始めた。
どうして女が先に誘惑されたのか。女は生理的に完結していない生き物だからだ。女は男の精子を受け入れて初めて女となる。男はその意味では完結している。精子を体内で生み出し女に与える使命を果たせば良い。
31回に続く

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人生の失敗29

第29回
罪の発生
自我は物欲・支配欲・名誉欲・性欲等を満たすのに他人の権利を奪う。それが罪と呼ばれるものだ。限られた資源を巡って動物は生存競争を繰り返す。弱肉強食の原理に従って動物は生きている。
人間は弱肉強食とは違った原理で生活している。自我に先導され様々な欲求を満たすのに邁進している。所有欲から盗みの行為が派生した。自然に生えている植物を取るのは盗みではない。他人の所有物を取るから盗みとなる。それは一つの罪だ。
罪は最初アダムとイブから派生したと旧約聖書では書かれている。アダムとイブが神から食べてはいけないと言われていた善悪を知るきから果実を食べたことから最初の罪が始まった。それを原罪と呼ぶ。
善悪を知る木の実を食べることは自我の芽生えに相当している。人間は自我により善悪の判断をすることになった。法律が明確でない時代は自分にとって有利なことは善であり、不利なことは悪であると考える。
例えば一つの土地をめぐる争いでは双方にとって土地を奪うことが善である。従って同じ土地を狙っている相手の行為は悪となる。つまり人間社会では善と悪は相対的な概念で一方にとって善であれば敵にとっては悪となる。その争いを収めるために法律が必要となる。
アダムとイブの時代は自分の自我が唯一の法律だった。自我に従うことが即ち善であった。良心の象徴としての神は二人に自我に従うことを禁じていた。自我ではなく自然の法則に則って生きることを指示していた。それを二人は破った。
30回に続く

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人生の失敗28

第28回
苦難の対処と罪の解放
以前までは苦難を避けて生きて来たように思う。自我が傷つくのを恐れたからだ。しかしこれらの経験を通して苦難に立ち向かう勇気が与えられた。苦難から逃げていては何も始まらないことを知った。
苦難から逃げるのではなく苦難に立ち向かえるように心が変化した。大学受験からも逃げずどこでも自分を受け入れてくれる大学に入ろうと覚悟を決めた。苦難を経て自分自身を鍛えたかった。
それと同時に過去に自分が犯した罪に対しての後悔の念が心の底にわだかまっていた。過去に弱い者をいじめたり、物を盗んだり、友達と喧嘩をしたりしたことが次々と思い出されて心の重しとなっていた。
聖書を読み進むにつれイエス・キリストの癒しの言葉により自分の罪が心から薄れる不思議な体験もした。それは自分の過去を清算する手段に興味を持つ最初のきっかけとなった。罪を深く知ろうとする関心が起こった。
29回に続く

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人生の失敗27

第27回
聖書
聖書は自我と良心との葛藤を象徴的に描いた書物だ。家には聖書やその関連図書が山ほどもあった。私はそれまでは見向きもしなかった聖書を読み始めた。そしてイエス・キリストの生きざまに衝撃を受けたのだ。彼は全く自我を捨て去っていた。
自我を捨て己の欲望を断ち切っただけではない。さらに本来自己の欲求を満たすために働く自我を逆利用し他人のために尽くした。彼は時代の変革者でもあった。当時ユダヤで幅を利かせていた律法学者を廃するために命を賭けた。
律法学者を敵に回したイエスは彼らの術策により十字架に掛けられた。その死が人類に救いをもたらす結果となった。劇的な死を遂げたイエス・キリストの生涯を記した書物が新約聖書と呼ばれる。

ゼロからの出発と180度転換
私は一時身体を壊し死の恐怖を身近に体験することで命の尊さを知った。この命が天からの授かりものだと気付いた時に目が開かれた。残された毎日は大事に過ごさねばならない。与えられた命は無駄にはできない。
イエスの生きざまを知ってから自我に翻弄されていた自分が馬鹿らしく思えて来た。自分の利益を犠牲にしてまで人に尽くした男がいたことに感動を覚えた。徐々に私の自我はその勢力を失って行った。
自我が弱まると同時にかつてあれ程強く感じていた体育教師に対する恨みも消えて行くのが不思議だった。聖書に書かれているイエス・キリストの言葉で傷ついた自我さえ癒されて行ったのは今までにない経験だった。
28回に続く

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憐れむ

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人生の失敗26

第26回)
身体の不調と死の恐怖
恐らく精神的に病んでいたのだろう。浪人の重圧から何のやる気も起こらなくなった私は当時足を痛めて炬燵で横になっていた母の横で際限なく流れるラジオの音を聞き流していた。
体調は芳しくなく下痢が続いた。特にタンメンのような麺類を食べるとてきめんだった。食欲も減退し立ち上がると立ちくらみがした。医者へも通ったがあまり改善はしなかった。
自分はガンではないかとの恐怖が起こったのもその時だった。
もし限られた命だとしたら何をすべきか真剣に考えたりした。時には生きるのが辛くなり自殺を考えたこともあった。夜の海に飛び込んだらどんな気分だろうかなどと夢想した。しかし自分には到底自殺する勇気はなかった。
それは夏の暑い日だった。下痢を繰り返し水分も取らず脱水症状を起こしかけた私は目の前が暗くなった。そのまま横になり目を閉じると心臓の音だけが体内に木魂していた。身体の奥底に命の火が灯っていた。
そのとき生まれて初めて生きている実感を味わった。そして命が自然から授かったものだと確信した。それと同時に神の存在が自然と心に溶け込んだ。私は無神論から脱却できた。そして興味はその時まで避けていた聖書に向かった。
27回に続く

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