人生の失敗12

第12回
喧嘩
高校入学後、暫くして人生最大の危機が訪れた。ある級友と仲違いした。彼はKと言った。私は高校に入れた安堵感から開放的な気分になっていた。そして多少有頂天になっていた。その態度が彼の気に障ったらしい。
ある社会の授業の時いさかいが起こった。社会専用の教室に移動した直後の出来事だった。私が何か気まずいことを言ったかは定かでないが、同じグループのKがいきなり私に空手チョップを見舞った。私は咄嗟の出来事でただ唖然とするだけだった。
ところが授業が進むにつれ私の内部に言いようのない怒りが沸き上がって来た。私は彼の攻撃に対し何らかの報復をせねば気が済まなくなっていた。自分のメンツも今のままでは丸潰れに等しかった。
次の時間は体育だった。10分の休みに着替えた。椅子の上に立って着替えているKに向かい私は「さっきは何であんなことをしたんだ」と問い詰めた。すると彼は「そういうお前の態度が気に食わないんだ」と言って上から掴み掛かって来た。私は彼の服を掴むと椅子から引きずり倒した。そして彼の上に馬乗りになりパンチを加えようとした瞬間に邪魔が入った。
Uと言う柔道部の級友が仲裁に入ったのだ。そこで喧嘩は終わった。でもその後にまた屈辱的な出来事があった。体育が終わった休みに私はKに謝った。何故か自分が彼を投げ倒したことに急に罪悪感を覚えたからだ。それは恐らく親がクリスチャンだった所為だろうと思う。すぐに謝る良心の咎めを感じたのだ。
するとKは小癪な言葉で返して来た。「何も疚しいことがなければ謝る必要なんかないぜ」私は彼の返答に一本取られたと衝撃を受けた。正に彼の言葉が私の偽善を突いているいるかのようだった。実際謝る必要などなかったかも知れない。私が良い子ぶっただけかも知れなかった。
私はKとの喧嘩で確かに腕力では勝ったかも知れなかった。しかし言葉で負けた。そして言葉の威力をまざまざと知った。腕力より言葉の力の大きさに圧倒された。私が謝ったことで彼に弱点をさらけ出した。
日本では昔から’負けるが勝ち’と言う言い伝えがある。またキリスト教でも似たような教えがある。私はその考えを受け入れたことでその後彼らから手酷い目に遭う結果を想像できなかった。彼らとはKとその取り巻きである。事実、Kが言葉で私に勝った瞬間に彼の取り巻きは、「いいぞ、いいぞ」とはやし立てた。
私の敗北は確実となった。その出来事以来クラス全体が敵に回ったような錯覚に陥った。錯覚だけでなく本当に様々な嫌がらせを受けた。弁当箱に石炭が飛んで来た。椅子の下に紙くずを投げ捨てられた。今まで味方だと思っていた者たちまでも敵に回ったのは意外だった。
中に何人かの味方はいたのだろうが私は孤立感を切実に味わった。体育の教師からのいじめ、そしてKとの確執はダブルパンチだった。登校拒否を起こしそうな気分にもなった。しかし学校へは通い続けた。
その頃、親の影響からかイエス・キリストだけはこの苦しみを分かってくれていると言うはっきりとした感覚があった。この感覚がその後、私をキリスト教に導く一つのきっかけになったことは否めな事実だ。
心の弱った者にとってイエス・キリストは最大の慰めとなる。また最後の砦となる。彼の経験した苦難に比べれば自分の苦難などは全く比較にならない。そうした比較の対象としての最極端がイエス・キリストの十字架なのだ。
13に続く

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