救いと聖潔

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人生の失敗19

第19回
何故の重要性
日本の学校ではあまり何故を言わせない。教師は生徒を一律に育てようとする。その方が教師にとっては楽だからだ。本来子供は探求心が旺盛なのに一律に育てられてしまう。何故の気持ちを失うのにはもう一つの理由がある。
自我が他人との比較を好むからだ。他人との比較によって自分の優劣を判断しようとする。周りの目ばかり気にしていれば心が内に向かうことはない。心が内に向かわないならば何故と言う探求心は起こり得ない。
子供は何故の質問をし続け親を困らせる。面倒くさがり親は子供への対応をいい加減にしがちだ。だが親は子供への対応を真摯に行うべきだ。親への信頼が保たれるかどうかの岐路がそこに横たわっている。
何故は相手との対話を生み出す。お互いの間の信頼関係も築ける。何故の心を失うことは探求心にとどめをさす。心の進歩を失うことになる。一種の諦めの心境が芽生える。何故の室温を発しても誰も受け入れてはくれない。
何故の質問を止めることは日常性に没することにつながる。すべての出来事を単に当たり前のこととして受け入れる態度に終着する。その先に待っているのは惰性で生きる態度でしかない。
相手に何故の質問を浴びせても解決がつかない場合はその質問は自分自身に向けられる。思春期の時期に何故は自分の心に向かい始める。そこから心の中での自我の対話が始まる。そしてその対話こそが自我の暴走を防ぐ効果を発揮する。
20回に続く

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