入院

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自我と超自我45

その45)
(目覚めの五分)
超自我に身も心も委ね、深い眠りを経た朝の目覚めは爽快そのものです。あなたは睡眠により身体の疲れは癒され、心は今日という新たな一日を前に期待で一杯の筈です。たとえ寝る前に、一抹の不安がよぎっていた心も快い朝を再び迎えられた感謝で満たされるや、昨夜感じた不安さえも霧が晴れるように既にその影さえ見当たりません。
窓辺から差し込む朝の薄明かりの中で、まどろむ一時は夢と現実をつなぐ架け橋です。新しく始まる今日に対する期待が胸に満ち、頭に描き出される映像がこれからの指針となっているのです。静かに目を閉じた脳裏に去来する様々なイメージは、心の深層に潜む超自我の思いそのものです。朝、目覚めたての脳には、外界からの刺激が一切入り込んでいないからです。
しばしの間、目を閉じたままでイメージの世界に心を躍らせてみましょう。超自我の願望から飛び出したばかりのイメージはやがて実現されることを待ち望んでいます。嘘、偽りのない超自我からの信号が、言葉としてではなくイメージとして心に浮かび上がって来たのです。あなたは超自我が提示するイメージを実現するためなら、どんな努力も厭わないことでしょう。その願いはあなたが自然から割り当てられた使命と一致している場合が多いからです。
夜、寝る前のイメージと違い、朝、目覚めた時、心に湧き上がるイメージは何と華やかなのでしょう。夜は眠りに落ちる前に心は収束に向かって、イメージは徐々に縮小される傾向にあります。夢の中では確かに周期的にイメージを膨らませる超自我ではありますが、眠りに落ちる瞬間には、イメージは消滅したも同然の状態となります。
それとは逆に目覚めた直後は頭の中には様々なイメージが湧き上がります。その中には夢の余韻が残るイメージもあります。夢の世界では何の抑制もなく羽ばたいた超自我は、心のキャンバスに思いのたけの情景を描写し、夜明けと共に再び、心の奥底に沈潜してしまうのです。それでも目覚めた直後に目をつぶって、心の眼で辺りを探ると、未だ心の奥底にまで逃げ込んでいない超自我が、沈潜する間際に描き残そうと努力したイメージを垣間見ることができるのです。
朝、目覚めた後にまどろむ五分間の一時は、定住の棲家に戻ろうとする超自我が最後の力を振り絞って心のキャンバスに描き出した、夢の残像としての鮮烈な情景を見るには最適の時間帯なのです。
そして次に夢のまどろみを掻き消すようにして脳裏に去来するのが超自我のヴィジョンです。まどろみ直後に超自我は今日から明日に向けてのあなたの使命をヴィジョンとして、脳裏に描き出してくれるのです。
利己的な自我の思いが混在しない、超自我主体のヴィジョンは実現されることを待ち望んでいます。その実現に向けて超自我は総力を結集して、あなたに協力します。あなたが信じさえすれば、やがてそのヴィジョンは思いがけない形で実現するのです。

朝の目覚めの5分間は夢と現実が交錯している瞬間だ。夢では潜在意識が優勢であり、心の奥が見透かされている。そこには真実の自分の姿が映し出されている。
46に続く

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被害者意識

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自我と超自我44

その44)
第2部 あなたの使命を果たすための示唆
(静かな時)
私はここまで超自我にまつわる様々な情報をあなたに提供して来ました。超自我が生きる上でいかに重要かが分かって頂けたでしょうか。あなたに分かって頂けたとして話を先に進めたいと思います。
生命の根源に直結し、あなたの毎日を陰で支えてくれている超自我の声を一体、どの様にして聞き取ったら良いのでしょうか。超自我の声は本当に微かなのです。その声を聞き取るにはあなたが心を静め、自分の心を見つめるしかありません。
一日の内、5分でも10分でも自分の心を見つめ、超自我の呟きに耳を傾ける時を持って下さい。それは夜寝る前の一時でも構いません。朝、寝床から出る前の数分でも良いのです。あなたが心を落ち着けて自分の内面に思いを馳せる一瞬が大事なのです。
さらに休日には自分の内面に向き合う時間をなるべく多く取った方が良いでしょう。ユダヤ人にとっては土曜日が休日なのです。彼らは休日には一切、仕事をしません。仕事の事も考えません。ユダヤ人の店が開いていないので、彼らは外出もしなければ車や電車で遠出することもしないのです。ただひたすら自宅にいて、子供を教育したり、本を読んだりしつつも自分の超自我に向き合う時を過ごすのです。
私たち日本人はとかく忙し過ぎます。休日といえばレジャーに出掛けることが多く、家にいて落ち着いた時を過ごすことは少ないようです。外出から帰って来るとぐったり疲れ、夜はテレビを見たり、ビデオを見たりして過ごします。
私も以前は休日であれば外出するものだと考えていた時期がありました。家にいる時間はもったいないと感じていました。特に子供ができ、その子が小さい内は、外に連れ出すのが親の務めであるかのように思っていたのです。ですから休日は平日よりも忙しく、外に出かけて帰って来るとクタクタでした。そして、その疲労感を引きずるようにして、また次の一週間が始まった訳です。
そうなると自分の心の内を見つめるゆとりもなく、周りに流されて生きて行くのが精一杯の状況だったのです。自分が果して本来、目指すべき方向へ進んでいるのかも全く分かりませんでした。
真実の自分に面と向き合うのが怖い時期もありました。当時、生活を優先させるために不本意な仕事に就いていたのです。当初はその仕事を好きになろうと自分なりに努力しましたが、十年勤めて結局辞めることにしました。辞める決心がつくまで、私は自分と真正面から向き合えなかったのです。そして自分と向き合うのが恐いがために、休日など時間がある時は、すべてを忘れるためにレジャーに我が身を任せたのです。
本当に自分がやりたい事から目を背けて、真実から遠ざかる生活はやがて破綻しました。私は初心に帰って、自分を見つめ直し、本当にやりたい事は何かを自分の心に問い掛けました。そしてついに超自我が発する声を聞き、その指示に従ったのです。会社を辞める決心をした後は、再び私の心に平安が戻って来たのです。周りからの反対はありましたが、私は脱サラすることができました。
私たちは時として立ち止まって、今の自分が本当に満足している生活を送っているか、自問自答する時間が必要なのです。そうしたからといって、超自我の声がはっきり聞えて来るかどうかは個人差もあり、定かではありません。ですが、あなたの超自我は何らかの方法をもって、苦境にある時もそこから抜け出せる道を指し示してくれているのです。
夜寝入る前の一時、ベッドの中で明日への不安がふと頭をもたげて来ることもあります。その時は心を落ち着けて、今まで超自我があなたを支えて来てくれたことの数々に思いを馳せれば良いのです。あなたが今日まで平穏無事に導かれて来た以上、明日からもあなたの導き手である超自我にすべてを委ねるしかないではありませんか。
あなたは明日の朝、突然心臓が止まっていたり、呼吸困難に陥ったりといった不安の内に床に就くでしょうか。決してそんなことはない筈です。超自我は寝ている間も、あなたの生体機能を正常に保ち、明日の朝も今朝と同じ様に心臓の鼓動を保ち、呼吸を整えていてくれるでしょう。どう変化するか分からない明日の出来事を心配するのは取り越し苦労というものです。
「今日までそして明日から」という歌が以前ヒットしました。その歌詞の中で、今日まで生きて来た自分をありのままに振り返ると共に、明日も同じ様な人生が続いて行く様子が歌われています。そして重要なのは、自分を知る所からすべてが始まるという箇所です。
何にも増して、自分を知りさえすれば今日まで無事に生きて来られた足跡を、感慨深く認められる訳です。そして明日から続くであろう道のりも、それほど急な変化を遂げることなく、今日までの道のりに連なっているのです。
今日一日、無事に生きられた恵みに思いを馳せても尚、明日への不安が心をよぎる時には、就寝までの間の一時を読書で過ごす手もあります。心を平安にさせる読み物としては、生きることへの讃歌が書き記されている類の本が最適でしょう。明日への希望を夢見ながら眠りに就けるからです。

夢から醒めた瞬間は超自我が優勢の瞬間だ。何故なら超自我は夢の中で活躍しているからだ。夢心地のまどろみの中で自己は超自我の意識を通して本心を知ることができる。
45に続く

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変化

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自我と超自我43

その43)
(超自我の復活)
許しを求め願う、祈りの特権を祭司の手から個人の手に移した点で、イエスは革命的でありました。神に祈る特権を独占的に与えられていた、当時の祭司や宗教関係者は当然、彼に反発しました。その結果、以前から預言されていた通り、イエスは正に彼らの手によって十字架刑に処されることになったのです。
イエスは個人が、絶対者である神に近付く道を私たちに示しました。自然界に君臨すると考えられていた神が、実は私たちの超自我の中に内在することを実証したのです。私たちはもはや自然界の絶対者に大声で呼び掛けるのではありません。静かに私たちの超自我に向かって祈りをもって語りかければ、絶対者に気持ちが通ずることを知ったのです。
心を静めてじっと耳を澄ましてみて下さい。あなたの心臓の鼓動と血液が脈を打って、全身を淀みなく流れる音が聞こえて来る筈です。あなたの超自我は昼夜の別なく、心臓の動きや他の諸々の臓器の動きを見守り続けています。だからあなたは安心して、超自我にすべてを委ねることができているのです。
自然の生態系と密接に結び付いている、あなたの超自我はあなたが最も効率的にその生を営むことを期待しているのです。眼に見える物しか信じない自我は、不合理な神の存在を否定するかも知れません。何故なら自我は計算づくで納得できる事柄しか信じないからです。自我は自ら掌握した知識の範囲内で判断を下します。自我とは限定された範囲で考え判断する宿命を負わされているのです。
イエスは神と離反した自我に死の宣告を下し、神が宿る超自我に再び命を得させるために、その身を神に捧げるしかなかったのです。その身を捧げて絶対者と人間の超自我との仲を取り持ち、私たちの超自我の復権を果たしました。
自我の独走によって一旦神から離れ去った人間の心は、自力で神に近づくことはできません。一つには、神に敵対する自我の勢力が強い内は、余程の転機がない限り、神に回帰することはできないからです。二つ目は、神から離れた自我を神自身が良く思っている筈がないからです。神にとっては人間が神から離反すること自体が悪と見做されています。
つまり自我が高慢にも自然から与えられた身も心も自分の所有物と考えるだけでなく、生命自体を与えてくれた自然にさえ敬意を表さない態度に対し神は怒るのです。何故なら自然界の中で調和の内に生命活動を営めない人間だけが自然の摂理に反する張本人となっているからです。
「天に向かってつばをする」という表現があります。天に向かってつばをしても、結局それは自分の身に降りかかるという意味です。私たちは大自然に敵対したとしても全く無意味なのです。それは自分を育んでくれた本体を否定することだからです。
自我が神と敵対関係にある内は、超自我との関係もギクシャクしたものとなります。神が宿るとされる超自我と、神に敵対する自我とは全く進む方向が逆だからです。超自我を復活させ、活性化するには、どうしても自我が先ず自然の根源に宿る絶対者の前に頭を垂れるしかないのです。
 絶対者は忍耐強くあなたの自我が自然の摂理に目覚め、あなたの超自我と歩調を合わせて、あなたに天与された使命を果たすことを切望しているのです。

自我に翻弄され一時勢力を失ったかに見える超自我を認識した自我が自重し超自我が勢力を復活すれば恐れるものはない。
第1部完
44に続く
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自我と超自我42

その42)
(仲保者の出現)
自然と調和の中に生きる日本人にとっても超越者に祈り、願う際には専門の神官を介す必要がありました。まして自然との対立関係にあった二千年前の過酷な中近東地方では、人の思いを超越者に伝える祭司の役割りは重要だったのです。そしてその権威は絶対的でした。
自然は人間に恵みをもたらしてくれますが、人間が悪をなした時は何らかの報復が下されると考えられていました。日本では「罰が当たる」という表現が使われますが、悪事と罰を結び付ける風潮は世界中のどの地域でも見られたのです。
祭司は貢ぎ物をもって、神の怒りを解く役目を担っていました。悪事をなした者は、貢ぎ物を祭司経由で神に捧げねばなりませんでした。個人と絶対者との間には途方もない距離が存在したのです。祭司とはその距離を埋める存在であったのです。
ところがやがて人間は自然についての知識を深めて行きました。その結果、自然現象や自然災害ですら、単に神の怒りという捉え方ができなくなって来たのです。悪事と自然現象を結び付ける不合理さに、人間が気付き始めてしまったのです。
現象としての自然についての知識が増すにつれ、人間の興味は心理面に向かったのです。そして悪事を働いた後の心の動きに興味が移ることになりました。悪事の結果、自然現象に異変が起こり、神の怒りを鎮めるために貢ぎ物を捧げるという以前まで有効であった図式が成り立たなくなり、同時に祭司の権威も次第に低下して行きました。
祭司は個人の心の問題を解決する上では、従来の方法、祭壇に生け贄を捧げ、神に祈るという方法が無力になったことを思い知ったのです。個人的な悪、すなわち罪によって引き起こされた弊害は当人の身体変化に及びます。さらに関係する人々との間に軋轢を生み、犯罪に発展するケースも増えるのです。こうして個人の悪は自然現象との関係より、周りの人々との関係において追及されるようになりました。
心の内面の問題、そして人間関係の問題に焦点が移って来ると、自然の中で捉えられていた超越者の存在が希薄となります。もし超越者がいるとすれば、個人の内面深くで私たちに生きる光と力を与えてくれる内在的存在としての超越者が次第に脚光を浴びるようになって来ます。その段階において貢ぎ物を介して、人と神の仲を取り持つ従来の祭司は用をなさなくなったのです。
二千年前のユダヤ社会では、熱烈に人間の内面にまで立ち入って人と超越者との間を取り持つ仲保者の出現が待たれていました。その期待に応えて出現した人物がイエス・キリストであったのです。人の内面をも司る超越者としての神と人間の仲を取り持つ仲保者として、彼は世に現われたのです。

神の仲保者としての役割を担うには神と直結している超自我が常に覚醒している必要があった。
43に続く

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自我と超自我41

その41)
(祈り・願いの対象)
古来、人類は自然の中に祈りの対象を求めて来ました。自然の脅威に対して無力な時代であれば、捧げ物をし、祈りをもって自然界に潜む偉大な存在の怒りを取り去るしかなかったのです。自然を含めた外界を自己との対立として捉えようとすれば、苦境時において私たちは孤立せざるを得ません。
順風満帆な人生の過程では、外界と調和を保っていたかに見えた自己も、逆境においては対立する存在と化した外界から孤立するのです。自己が一人孤立した心細さと言ったら、どんな言葉をもってしても形容できないほどです。もし頼みとしていた親も今はなく、兄弟姉妹も当てにはできず、さらに友人たちからさえ冷たい態度を取られたら、それこそなす術はないのです。
そうです、人間がその真価を問われるのは逆境においてなのです。今まで経験したこともない困難に出会った時、私たちは茫然とし、「何故自分にこんな困難が襲って来たんだ」と自問します。逆境とは生命の危機・病気・交通事故・自然災害等です。数え上げれば枚挙にいとまがありません。
自然災害は別として、ほとんどすべての困難は個人だけを直撃するものです。そして直撃された個人は普通、自分一人の力でそれらの困難に対処し、問題を解決しなくてはいけません。もち論、これらの困難の内には自然から与えられるものだけでなく、他人からもたらされる困難も含まれます。例えばいじめとか嫌がらせ等です。
困難に直面し、苦境に立たされた時、もし周りに誰も助けてくれる者が見当たらず、しかも悩みを訴える相手さえいなければ、その者の心はどんな暗黒に包まれるかは想像に難くありません。実に私たちが苦境の中において、絶望に陥るのはこうした時なのです。孤立した自我は周りの世界と対立します。心を閉ざした自我は自然からの恵みや両親・知人からの愛を通して、わが身に生命の光が降り注がれている事実に気づくことはないのです。
外界を自己との対立として捉える見方は、昔に比べ現代の方が際立っています。科学技術が発達した現代では、外界は自己との対立要素として捉えられています。突き詰めれば、現代では自然とは人間の征服対象として捉えられ、昔と比べてさらに対立の意味合いは強まっているのです。征服する対象となった自然の中に、崇拝する対象としての神を見出すことは心情的に不可能だからです。従って宗教が育つ素地はどこにも見出せません。
古来、日本において人間は自然と共存する道を探って来ました。人間は自然と調和する中で、生活の安定を保って来たのです。他方、西洋思想は自然と対立する姿勢を本旨とする科学技術に基を置いています。日本は開国後、西洋思想の内でも特に取り込みやすい科学技術を重点的に導入して来ました。その結果、日本人の心情は自然との調和から対立へと一変してしまったのです。
日本古来にも卑弥呼が活躍し、神道が隆盛を極め、天皇制の基礎が形作られた時代はあったのです。自然との調和を第一と考える日本人が作り出した文化と言えましょう。当時、個人は自然を司る絶対者と直接、交渉できないという思想が根底にあったのです。
人間と絶対者を取り持つ役目を担う神官の働きは古来、重要でした。今でも交通安全祈願や地鎮祭等、特定な儀式の際には、神官は重要な役目を担っています。未だに日本人の心の奥底には宇宙を司る、見えない絶対者の存在が見え隠れしているのでしょうか。

人間は古来具体的な崇拝の対象として偶像を作って拝んでいた。やがて言語を通して知恵が発達すると偶像ではつじつまが合わなくなった。その結果、創造主は目には見えない無限の存在として捉えられるようになった。
42に続く

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