自我と超自我38

その38)
(犠牲的死)
イエスはその教えの中で度々「人のために命を捨てること、これより大きな愛はない」と言って愛の原理を示しました。彼は十字架の死に甘んじることによって「生きたい」という自我を捨て去り、「教えに実体をもたらしたい」という超自我の声を優先しました。
イエスの超自我は公的人生を歩み始めてからは、自我からの圧力を撥ね退けて来ました。彼はその公的人生を始めるに当たって、先ず荒野で悪魔の試みを受けました。悪魔の囁きは横暴な自我を襲う誘惑の声を象徴的に表わしたものです。彼は三つの誘惑に打ち勝ちました。
一つ目は食欲に関する誘惑です。一般的には肉にまつわる欲望からの誘惑と言えます。二つ目は自分の力を過信する誘惑です。そして三つ目は名誉欲についての誘惑です。悪魔は「神に従わなければすべての欲望を満たしてやる」と豪語したのです。イエスは悪の声を退けました。その時点で欲望が渦巻く自我とは縁を切ったのです。そして神として象徴される自然の摂理に従い、その根源において超自我が直接、自然の恵みから力を受ける道を選んだのです。
イエスの死は聖書の中で古くから預言されていたものでした。預言を成就するため、そして神から人類に約束された知恵の言葉に生命を与えるためにイエスは十字架上で死なねばならなかったのです。彼の死によって、今の私たちは聖書から生きた言葉を得ることができるようになったのです。その意味で犠牲的な死だったのです。
さらに自然の根源と直結する超自我から幼児期を境として、次第に離れ去り増長した自我に占拠された私たちの心を再び、超自我から溢れ出る自然の恵みに立ち帰らせるのには、イエスの死が不可欠だったのです。何故なら彼が死を賭しても超自我にすがり、死の直前でさえも彼の敵を許すまで自我を滅却した事実が、私たちに唯一、超自我へと近づく道を指し示したのです。イエスの手本によってのみ、私たちは不本意にも一度、手放した超自我に近づき、自我の独走を抑えることが可能となったのです。
こうしてイエスは死を超えて、私たちが生命の源に近づく道への懸け橋となりました。その死は正しく犠牲的な死であったのです。

イエスは当時のユダヤ人を念頭において犠牲的な死を決断した。また聖書の預言書に書かれていた救世主の実現を果たすために死を選んだ。現代人にとってイエスの死が効果的かどうかは受け取る側の心情に拠る所が大きい。
39に続く

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