間接的な怒りも痛手

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自我と超自我18

その18)
(自我の自立)
親の超自我から充分な滋養を分け与えられた子供の超自我から自我がはっきりと分離し、やがて自立の道を辿り始めます。学年としては中学一年頃と言えましょう。それ以降、子供は学校社会に親の助けなしに飛び込まねばなりません。小学校時代までは、その胸にすぐに飛び込めた親の存在は、遠い彼方に飛び去ります。
子供が親との密接な関係を断ち切りたいと思う年代に突入するのです。十三歳以降の個人は親よりも友達に接近します。親しい友人同士の利害関係は一致しますが、親子の利害関係は一致しなくなるからです。友人同士が遊び求める対象は、多くの場合、親や教師からは白眼視される種類のものです。
中学になれば意識せずとも恋に芽生えます。それは心の奥底から湧き上がって来る思いであり、意志では制御できないものです。その悩みを親や教師に相談できるでしょうか。私は出来ませんでした。やはり相談相手は友達しかいないのです。
性の悩みもあります。男なら自分の性器が他人より大きいのか小さいのか気になり出します。お互い見せ合って比較できる相手は、やはり友達しかいないのです。さらに自慰に至っては友達にさえ、相談できない行為です。
中学になって男の自我は急に葛藤し始めるのです。超自我の根底から女性を抱きたいという、思っても見なかった欲求を突き付けられるからです。親に相談できない問題を抱えた自我は自立せざるを得ません。

自己の内を振り返る機会が増える思春期には自意識が過剰になると共に自我も明確に意識されるようになる。他人の眼に自己がどう映るかを意識するのが自意識であり羞恥心の源泉である。自己の意識に投影される対象が自我であるが、当初、親の自我と同じ方向性を持っていた子の自我が方向転換するのは何故であるか。
先ず一つ目に子にとって親の自我は対象として捕捉されるので超自我と自我との複合体として子の意識に上る。ところが子の自我は超自我と分離しているので単体として子の意識に上る。従って比較する対象が異なるので食い違うのは必至である。
二つ目は親の自我と子の自我は育成された時期に多大なずれがある。通常2、30年のずれがある。そのため親の自我が植え付けられた価値観と子の自我が植え付けられた価値観とが相違するのは当然であり、価値観が違えば判断も異なって来る。従って親の自我と子の自我は対立する機会が増えるのである。
19に続く

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夢の検証381

夢の続き

O次長に誘われたが断って同僚とラーメンを食べに行った。直ぐに食べなかったのでのびて汁がなくなった。
G工業のエレベーターで下まで下りて本屋に立ち寄ってから昼食を取ろうとしていた。そこで同僚に呼び止められた。蒲田工場に電線を届けて欲しいと言われた。タクシーを拾うと一万五千円かかると言うのでやめて電車にした。切符を買おうとしたら小銭が三百円しかなかった。電車の隣の席には妙齢の女性が座っていて話が弾んだ。そしておにぎりを食べた。

夢の検証381
G工業のO次長が久々に出て来た。すっかりその存在を忘れていた。彼の誘いを断るなんていい度胸をしている。のびたラーメンほどまずい者はない。
G工業と本屋との取り合わせは珍しい。やはり昼食の場面が出て来た。蒲田工場とはG工業の発祥の地だ。そこには商店街があり夕方はごった返していた。タクシーはいつも高い。

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