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自我と超自我32

その32)
(罪意識)
どの宗教でも取り上げられる主題の一つに罪があります。仏教においては虫さえも無闇に殺すことを戒めた「殺生」の罪が代表的な教えです。キリスト教では人間は生まれながらに原罪という罪を背負った存在と考えられています。そこで教典である聖書の中には罪人という言葉が多く見受けられるのです。
私たち日本人がキリスト教に寄り付かない第一の原因は、「罪」という言葉への反感にあります。原罪とは前に触れましたが、人間が神に背いて生きているという罪を指します。その原罪を筆頭に聖書にはありとあらゆる罪が記されています。クリスチャンと言われる人々が世間の人々に罪とか罪人とかの言葉を、不用意にも口にすることが一般の人々を聖書から遠ざけている原因の一つになっているのです。
日本語で「罪」とは犯罪のイメージに直結します。ご存じのように西洋では「罪」と「犯罪」とは別の表現で表わされています。日本語では「罪」という言葉の指し示す範囲が広過ぎるがために、多くの誤解が生じているのです。聖書でいうところの「罪」とは「犯罪」という側面より「過ち」という側面が強いものです。
日本語聖書の中では殺人や姦淫等、本来の意味では「犯罪」と表現されるべき行為をも「罪」と表記されている点で少なからぬ誤解が生じているのです。それほど大きな「犯罪」を犯さずとも、私たちは日常生活で些細な「罪」(過ち)を犯す機会は多いのです。
幼児期から自己を守るために「嘘をついたリ」「喧嘩の相手を必要以上に中傷したり」する「罪」は当初、過ちとも言える微細な始まりです。ところが過ちの芽をそのまま放置し、尚かつ親や社会がそれを放任して置けば、その芽は大きな木に生長し、「罪」を形成することになります。そして他人との係わり合いにおいて、その罪はやがて「犯罪」にも発展しかねない危険をもはらんでいるのです。

キリスト教で特有の罪と言う言葉には注意が必要だ。単なる過ちも罪と言う概念で一括りしているからだ。キリスト教で言う最大の罪は人間が神から離反したことだ。確かに現代には神はいなくなった。個人の自我が強くなり過ぎたからだ。自我に過信し過ぎている。
33に続く

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