答えは自分の中に

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自我と超自我28

その28)
(自意識と羞恥心)
動物の中では高度に発達した部類に属するチンパンジーは、曲芸に失敗したりした時、頭をかくのは一種の羞恥心の表われかも知れませんが、その仕草だけでははっきりとしたことは分かりません。彼らも馬鹿にされれば、怒ったりもするので自意識の芽生えはあるのでしょうが、それが人間ほど分化していないのは明らかです。
人間の羞恥心は排泄行為の段階に応じて育まれて行くようです。オムツが取れるか取れないかの幼児はもち論のこと、トイレトレーニングが済んだレベルの幼児でも、自分の排泄物に対して極端な嫌悪感は抱いていないようです。私の母の田舎に住んでいたいとこは、幼少時に自分のウンチを舐めて変な顔をしていたと聞いたことがあります。幼児にとってウンチやオシッコはそれほど汚い物ではないのです。
ウンチがウンコと呼ばれるようになると、急に汚らしく感じるようになります。その臭い自体が嫌悪感を催させます。小学校ぐらいになると、「エンガチョ」と言って、くさい物に触ったり、足で踏み付けただけでも仲間から除け者にされるようになります。次第にウンコやオシッコを出す部分も汚いという思いで洗脳されて行くのです。
衆目の中で汚い部分をさらけ出すというのは、何にも変え難い屈辱であり、羞恥心をかきむしられる出来事なのです。ただし思春期にでもならない限り、男子児童はプールの着替えでも前を隠すことはありません。同性の前でも前部を隠すのは思春期以降の話です。
私は小学校高学年で強烈過ぎる、羞恥心を味わいました。女湯の銭湯に一人で入ったのです。言い訳を言わせてもらえば、男友達が一人既に入っていると聞かされて、後を追って女湯に飛び込んだのです。ところが入ってみると、友達のクンちゃんはいませんでした。
それでも私は一人で湯船に浸かってから出て来ました。周りに展開する垂涎の情景にも眼を上げるゆとりなどなく、そそくさと湯船に浸かり身体も洗わずに出て来たのです。
女湯の中で私は前部を隠していたかどうか、今となっては定かではありません。ただ言えることは、皆の目が私に集中していると感じたことです。実際、彼女たちにとっては小学男子児童の裸なんかどうでも良かったことでしょう。十歳の子供に自分たちの裸を見られることも格別、気になることではなかったことでしょう。
でも私は違いました。お互い裸同士ではありましたが、思春期に近い男子が多数いる裸の女性の真っ只中に飛び込んだ体験は今でも赤面の至りに匹敵する出来事だったのです。
そこで味わった羞恥心は決して排泄行為の汚れに結び付いた種類の羞恥心ではなかったのです。確かにそれが男湯であれば、大人が不用意に露出した前部に対して汚らわしさを感じたかも知れません。それは排泄行為に結び付いた汚らわしさに起因する羞恥心であったことでしょう。
しかし私が女湯で感じた羞恥心は、汚らわしさから来る羞恥心とは全く別物だったのです。それは普段全く見慣れない光景に対する驚きに端を発した羞恥心でした。驚きの光景を目にした後に続く、穴があったら入りたいほどの恥ずかしさは一体、何だったのでしょう。
その体験はまさに異性と生まれたままの姿を見せ合う恥ずかしさだったのです。つまりわたしはその時点で、性的に成熟しかけていたのです。女体の神秘に対する興味に目覚め始めた時期の出来事だった訳です。

羞恥心の内でも性的な羞恥心は最大のものだ。子供が大人になる時に感じる性的羞恥心は今までぼんやりした境目しかなかった男女間に明確な一線を画す。男にとって女は全く異質の生き物として意識されるようになる。
29に続く

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