再会の喜び

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自我と超自我29

その29)
(羞恥心と自意識)
羞恥心とは自分が他人の目にどう映るかを気にする心から派生したものです。自意識も同様に自分が他人にどう見られているかを気にする心の表われです。
私たちは常に他人の目を気にして生きています。一時、話題になったストリーキングやヌーディスト村では公衆の面前で裸体をさらしていましたが、一般社会では有り得ないことです。日本は古来からたしなみが重んじられて来た国です。祭りや相撲等、特定の場合を除いては男も女性も人前で裸をさらすことはして来ませんでした。特に女性においては家庭内でも下着姿を家族の者にさえ見せない、たしなみが要求されたのです。
人前に裸をさらすことが恥のように、人前で心を無闇にさらすことも恥と考えられます。心をさらすとは感情を意識的に抑え切れず、怒りや悲しみを人前にさらすことです。感情表現が豊かな韓国人民と違い、日本人にとって本来、人前での感情表出自体が恥とされて来ました。
激昂した感情を抑え切れず、感情に心を奪われることは自己を見失います。すると他人との関係で必ずや、トラブルが発生することになります。怒りを顔に顕わにすれば、それを見た相手の感情も平静ではいられなくなるからです。
病的に独り言を口に出して言う者がいます。ともすれば、その言葉の中には不満や怒りが内包されているのです。正常者であれば人に聞かせたくない言葉は心の内で発するものですが、精神に不具合がある者は心の内の声まで口に出して発する場合があるのです。
彼らは周りの人に聞かれても何ら意に介さないのです。つまり人から自分がどの様に見られているかの意識、つまり自意識が欠如しているか、脆弱化しているのです。正常者ではあっても自意識が薄らいで来れば、人にどう見られても構わなくなり羞恥心は消滅してしまいます。
 もう一つ、自意識は過剰であるにも拘らず、感情を抑えられないタイプの人がいます。彼らに特徴的なのは、怒りに心を支配されると相手にどう思われようが関係なくなることです。彼らの自我が未成熟な段階にあり、判断の中枢が大脳辺縁系に密着し過ぎているのです。
 大脳辺縁系とは動物的な感情を表出する箇所です。一方、人間特有の大脳新皮質は理性的な判断を下す部分です。自我の発達が大脳辺縁系に留まり、大脳新皮質にまで及んでなければ、勢い感情的にならざるを得ません。つまり感情をやたらに顕わにすることは、大脳新皮質が自我に協力する段階にまで至っていないことを示しているのです。
自己を振り返る自意識と羞恥心は密接に関連しています。自意識の発達過程や強弱には個人差があります。思春期には男女とも自意識過剰の時期を通過します。誰も注目していないのに自分だけに視線が注がれていると思い込むのも思春期の特徴です。
成人すると自意識は薄れ、自分を振り返る機会が減少するか、皆無となります。社会に出たが最後、忙しさにかまけて自己を見つめることはなくなるのです。経済生活を優先し、娯楽に身を委ねる生活の中に、自己を見つめ直す内省の時間はほとんど見出せないのです。

性的羞恥心から端を発した自意識は青年期を迎え、その働きは活発になる。自意識とは自我の発達と軌を一にしている。自我が自己を内省する機会が増えると自我は相手から自分がどの様に見られているかを意識するようになる。他人に写る自分を評価する意識が自意識である。
30に続く

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