神との不和と人への恨み

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自我と超自我20

その20)
(男女の自我)
男でも女でも子供時代は、親からの規制が必要です。特に甘い男親に自由だけの雰囲気の中で育てられた子供の自我は、全く歯止めが利かなくなります。「男尊女卑」は今の時代には合いませんし、「女子は男子に従う」という考えも笑われるだけです。今は「男女同権」が当たり前で、女子は男子と同等以上に幼少時より、そして特に小学校高学年以降は活躍する姿が見受けられるからです。
私は子供も大人も男が女性に抑え込まれている風潮に危惧を感ずる者です。女性は男に一歩譲るぐらいが丁度良いと思うのです。女性の生体機能には本来、子を産み育てる能力が備わっています。女性の体は人類存続の目的にあっては、自己を守る欲求が男より強いのです。男は子孫存続を決定付ける行為においては、ほんの局部的に関与するだけです。男は後々、子育てに参加することはあるにせよ、妊娠・出産にはほぼノータッチなのです。女性こそが新しい生命に対して全責任を負うのです。
女性は次世代の生命を生み出す役割を考慮すれば、その身体も心も本人だけのものではなく、次世代の子供のために生きるという意味合いが強いのです。そのため子を宿した母親は必然的に利己的にならざるを得ません。
子を宿す役割を担った女性が独身時代から利己的であったら、一体どうなってしまうのでしょう。子を持った途端に、自我は何倍にも増幅されて強力にならざるを得ません。女性の自我の怖さは、一旦、たがが外されるや歯止めが利かなくなる可能性を秘めている点です。

男女は互いに補完関係にあるが大きく捉えれば個人と環境も補完関係にある。そして個人は環境から常にエネルギーを供給されている。言わば個人は供給を受ける側にある。供給する側を人格として見立てると神と言う存在が浮かび上がって来る。神から人間へのエネルギー供給は愛と呼ぶことも出来る。
神から肉体的にも精神的にも供給を受ける一方の個人だが、肉体的な供給は自給自足できる。人間は作物生産手段を開発したことにより食欲は自給自足できるようになり、神に頼る必要はなくなった。しかし精神的な供給は未だかつて自給自足できていない。
男女の補完関係も肉体的と精神的とに二分される。肉体的の補完は接触から始まり生殖に終わる。お互いの性欲を満たすためには生殖まで行き着かねばならない。単に接触だけの関係や避妊手段を介した行為では快楽は得られるが男女間のエネルギーの供給は不発に終わる。一夫一婦せいの現代社会では正常な肉体的男女間交渉が成り立つのは夫婦間のみに限定される。
男女間の精神的補完関係ではすれ違いが発生するのが一般である。女子の興味は表象的な事象に集中する。事象を時系列にして羅列する手法が主である。他方、男は事象の羅列では満足できない。事象間の因果関係に興味を持つ。更に個々の事象ではなく同類の事象を一括した群同士での因果関係を追求するのである。つまり女子は具体的で並列した事象に興味があり、男は抽象的で前後が直結した事象に興味を持つのである。
従って男女は精神的にも補完関係になってはいるが、お互いの興味が噛み合うことはない。お互いの興味が一致しないので男女間の会話はすれ違うことが多い。肉体的補完が目的の男は女子が求める精神的補完の要求を我慢することにより男女間の交渉は成立する。
21に続く

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