幸福と不安

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自我と超自我19

その19)
(似て非なるもの)
小学校高学年で性徴を迎えた男子も女子も、心と身体に変化を来します。その時まで超自我主体で導かれて来た心にも、自我という新たな勢力が台頭して来ます。自我は幼少時から心に見え隠れはしていたものの、主導権を握ろうと表舞台に出て来るのは、小学生から中学生になる変化の時期なのです。
超自我と自我は個人の行動や考えを先導するものではありますが、その性質は「似て非なるもの」です。超自我は周りの世界との調和を目指しますが、自我はその欲求を満たすためであれば、周りの世界と敵対することも何ら厭いません。子ども達は自分達を守り導いてくれている親にさえも、時として反旗を翻すことさえあるのです。
超自我は他人の喜びを喜びとして感じ、他人の悲しみは同情の眼で見ることができます。規律によって守られ、過不足のない環境で育まれた超自我は相手の気持ちに呼応できる感性が備わっています。
私は個人的に言えば姉に対しては、余り良い感情は抱いていませんでした。ところが幼少時にこんな出来事がありました。彼女が親の言うことを聞かず、ある時、父親に酷く責められていたのです。折檻に近いことをされそうになった時、私は涙ながらに父と姉の間に分け入ったのです。私が涙をもって、彼女に替わって詫びたため、父の怒りは収まり、そこに和解が成立したのです。
超自我は利害を超えた調和を求めます。それは対立より和解が好きなのです。自然の恵みで満たされ、親の愛に育まれた超自我は自分の利益だけではなく、他人の幸せも心にかけているものなのです。
一方、自我は自分の利益だけを優先します。自分の利益のためであれば、他人の幸せは意に介しません。自我は豊かさに埋もれた中で、甘やかされるだけの家庭で、その勢力を格段に伸ばします。

超自我は潜在意識下で生命の本体に直結しているために周りの環境と一体化している。その一体化を阻害するのが思春期に急成長する自我である。自我が超自我の発する微かな信号に耳を傾けさえすれば魂の平安は得られる筈だが、青年期の自我は極端な危機が訪れるまでは自信に満たされている。
自我の暴走を食い止めるために超自我は時に夢の中で或いは第六感を通じて自我に警告を発するが一度暴走した自我には見向きもされない。自我が一時的にでも自信を失い進む方向に疑問を持った時、超自我の発する信号に気づくことがある。その機会を逃してはいけない。自我が超自我に接近できる唯一の機会なのである。
20に続く

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