潜在意識61

その61)
(潜在意識に耳を傾ける)
それでは一体どの様にして、潜在意識の声を聞いたら良いのでしょうか。先ず、あなたは初心に立ち返る必要があります。自分に正直になり、あなたがやりたい事を探す旅に出ることです。やりたい事や目標が既に心に明確であれば、何ら悩む必要はありません。目指す事が他人に迷惑をかけないことでありさえすれば、大手を振ってその目標を目指し、突き進めば良いからです。
今はやりたい事や目標がはっきりしない若者が多いので、本人だけでなく周りの人々も苦慮するのです。やりたい事を見つけるには、自分が子供の頃に抱いていた夢に立ち戻るしかありません。子供時代に立ち戻るのが困難として、少なくとも青春時代の夢にまでは立ち戻る必要があるでしょう。実社会に出る前に抱いた夢に、あなたの本音は隠されていることが多いのです。
実社会では自分を押し殺して生きる傾向があります。つまり潜在意識の声に聞き従わずに、世の中の価値観に振り回されやすいのです。就職を決める際にも、自分の好みで会社・職種を選ばずに、その時代の花形企業を目指したり、給料が高い職種を選んだりしがちです。当初は一時的な満足が得られるかも知れませんが、十年二十年先には不満が噴出します。潜在意識がお仕着せの価値観に対して、反旗を翻すことになるからです。
こうして潜在意識に耳を傾けず、この世の価値観に翻弄された結果、自我は方向性を失います。移ろいやすい、世の価値観に対する強い思い込みが、潜在意識の存在をもないがしろにしてしまいます。本当は潜在意識から眼をそらしては絶対まずいのです。
失った時間は金銭では買い戻せません。潜在意識を無視した付けは後々、必ず回って来るものです。過ぎ去った人生を振り返って、後悔をしない秘訣は、真実の心の声に常に聞き従うことなのです。常に変わることのない真実の潜在意識を大事にしたいものです。
62に続く

その62)
(閑話休題)
10月から金曜日の朝仕事がなくなった。身体も心も何と楽なことだろうか。この歳になって人間、無理はいけない。自分の状態を見ながら仕事の量を決めるべきだ。
人間は同じ状態が続くと我慢できない。現状が少しでも改善の方向に向かっていることを確認したい。明日は今日より良くなるという希望が支えとなっている。
63に続く

その63)
(潜在意識の活用)
人類は古来、潜在能力の重要性には気づいていました。多かれ、少なかれ、すべての宗教は人間が持つ潜在能力を活用しています。宗教において、神や仏と言った人間存在を超越した存在を持ち出すこと自体が、私たち自身の弱さを表わしてもいるのです。自分の命さえ、自由にできない私たちは、その命をも司る存在にすがりつくしかないのです。
 現代社会では神の存在は希薄ですが、最近「ダ・ヴィンチ・コード」と言う、キリスト教を根本から考えさせる映画が話題となっています。キリスト教が根付いていない日本でも人気を集めているのは不思議な現象です。その映画の中では、キリスト教の根本教義である「イエスは神だ」と言う考えが否定され、人間的側面が浮き彫りにされています。
 一昔前まではマーフィーと言うアメリカの牧師が「眠りながら巨富を得る」等の著作で一世を風靡しました。著書の中で、彼は潜在意識の威力を盛んに説いています。人間は潜在意識を通じて、神と連なっていることを前提として、いかに神から奇跡的な力を得られるかが実例を元に語られているのです。
 高度経済成長時代の日本、或いは、それより以前の日本では、今より人間の持つ潜在能力が重用されていたように思います。そこには日本教という宗教があったような気がするのです。人民全体が一つの理念のもとに、成長を目指して前進していたと思うのです。
 昔の老人は「今日もお天道様に生かされている。有難い」と生そのものに対し、賛歌を唱えている人もいました。彼らは魂の根源で自然とつながり、周りの人々とも、心を通じ合っていたのでしょう。そして生かされている自分が世のため、人のために仕事をするのは、当然だとの気持ちが彼らにはあったのでしょう。
残念ながら今の日本には見られない「他者への思いやり」を当時の人々は持っていたのです。私は「他者への思いやり」の復権を待ち望む者ですが、それは取りも直さず、自分自身を最高に生かすことにもつながっているのです。
 私たち誰もが内に秘めた潜在能力を、他者のために最大限に生かすことは、最終的に自分に満足感をもたらし、幸福を得る第一歩なのです。それには、あなたが内に秘めた潜在能力を信じるしかないのです。
64に続く

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潜在意識58

その58)
(聖霊を活用する)
私たちは聖霊を活用することで、独断を避けることができるようになります。独断は大概、自我によってなされる判断です。心に聖霊を受け入れ、自我の勢力が弱まると独断は消え、決断した後にも自省するようになるのです。
自省とは振り返りであり、決定した事柄でも実施後、経過観察は怠らないことです。そして少しでも不都合な状況が生じるようであれば、当初の決定をも覆すのに、やぶさかでない点が独断とは決定的に異なります。聖霊が有益な点は、自説を曲げるのにやぶさかでないという点です。
もう一つ、自説を曲げるのに躊躇しない点も特徴的です。どちらも自我が最も不得手とするところなのです。自我は自説を意地でも曲げようとはしません。例え曲げざるを得ない羽目に陥ったとしても、渋々曲げることになるのです。従って、曲げた時点では事態は既に良からぬ方向にかなり進展していることになります。
59に続く

その59)
(閑話休題)
63を過ぎると急に欲が減ったような気がする。食欲・性欲・物欲・名誉欲とう全体的に強くない。食べたいと思うものも限られて来たし、前ほどエロ画像にも興奮しなくなった。
新しい物を欲しがる気持ちも失せて来たし、世の中で名を馳せても無意味なことも分かって来た。音楽を貪るように聴いていた時代はもう来ない。毎日が平和であればそれで良い。
60に続く

その60)
(潜在意識を覚醒させる)
一体どうやって潜在意識を常に覚醒させておけば良いのでしょうか。簡単な方法は、困難な状況に身を置けば良いのです。財産に執着せず、身の回りの品物にも未練を残さなければ良いのです。品物は所詮、天国にも地獄にも持って行けないからです。それならば早い時期に訣別してしまった方が良いのです。
物品だけに限らず、どんな物事についても、執着は心の自由を奪う元です。心を縛ることは極力避けた方が良いのです。
心を縛るものがなくなったとして、潜在意識を活性化させておくには創造性を高めねばなりません。毎日の平凡な日常生活の中でも、創造性を発揮しないと潜在意識の活躍する場がなくなるのです。
創造とは、現状とは違う発想なり、方法なりを試みることです。日々の仕事は経験に基づいて行なわれることが多いのです。経験を現状に生かす際には、意識が主導権を握り、業務を無難にこなす指示を出します。意識が取り仕切る作業は、新鮮味に欠けます。何故なら有限な過去の組み合わせに過ぎないからです。
平凡な仕事に独創性を持たせるには、無限の可能性を秘めた潜在意識に登場してもらうしかないのです。いや登場せずとも意識下で協力してもらえれば良いのです。潜在意識が意識を盛り立てるように協力してくれれば、それで良いのです。
仕事上で潜在意識に協力してもらうには、潜在意識の声に耳を傾けることが必要です。その声とは夢に隠されていることが多いのです。印象に強く残る夢を見ることがあります。それこそ潜在意識が私たちに信号を送っているのです。夢での信号を現実生活に取り入れることも非常に重要なのです。
61に続く

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潜在意識56


その56)
(潜在意識に聖霊が入り込む)
潜在意識に聖霊が入り込むのは、いつのことなのでしょうか。イエスを救い主として受け入れたクリスチャンの心は瞬間的に、劇的に変化すると言われています。何故でしょうか。
私たちがイエスを心に受け入れるとは、正確に言えば自我を一度、捨て去ることを意味するのです。意識の中心的存在である自我を捨て去るのは勿論、容易なことではありません。一大決心が必要なのです。
イエスと自我は両立しません。イエスは私たちの自我に敵対さえするからです。自我の束縛から自由になった心は、初めて潜在意識に目を向ける余裕が生まれるのです。ですから自我の勢力が最高潮に達する青年期に、イエスを受け入れることは奇跡に近いのです。よほどの困難な状況に襲われるかした結果としての、大きな心の転機が必要なのです。
一瞬の内に自我が消え去った心は、空虚そのものです。その空虚さを目指して入り込んで来たのが、聖霊と呼ばれる存在です。聖霊自体は実態がないのですが、聖霊が入り込んだ後の心が、劇的に変化することでその存在が知れるのです。
その変化とは180度、変わるほどの変化なのです。自己中心の心がいきなり、他者との共存を優先する心に変化するのです。心の変化は表情の変化・行動の変化をももたらします。不満は満足に、怒り・悲しみは喜びに変わるのです。
人格そのものまで変化したとも見られる状態は、外部から霊が個人に入り込んだとして解釈するのが自然なのです。こうして外部から心に入り込む霊を聖霊と称しているわけです。
57に続く

その57)
(聖霊を汚す)
イエスは聖霊を汚すことを厳しく戒めました。神を汚すことは許されるが、聖霊を汚すことは許されないとまで言ったのです。聖霊を汚すとは自分自身をないがしろにすることだからです。ここでの神は、私たちの外にいる存在として捉えられています。
自然界を統率する神を汚し、神に敵対するのは望ましいことではありません。神からの助けが期待できないからです。ところが、それ以上に聖霊を汚し、聖霊に敵対することは絶対あってはならないことなのです。
聖霊に敵対するとは、自分に敵対することにつながるからです。自分が自分に敵対したら一体、どうなってしまうのでしょう。国が内部で分裂するようなものです。内部分裂した国が外敵と太刀打ちできるはずがないのです。
潜在能力を活性化させる聖霊を汚すとは、潜在能力の力を否定することでもあるのです。潜在能力が心の拠り所となっている私たちが、それを否定することは本来あり得ないことなのです。
58に続く

その58)
(聖霊を活用する)
私たちは聖霊を活用することで、独断を避けることができるようになります。独断は大概、自我によってなされる判断です。心に聖霊を受け入れ、自我の勢力が弱まると独断は消え、決断した後にも自省するようになるのです。
自省とは振り返りであり、決定した事柄でも実施後、経過観察は怠らないことです。そして少しでも不都合な状況が生じるようであれば、当初の決定をも覆すのに、やぶさかでない点が独断とは決定的に異なります。聖霊が有益な点は、自説を曲げるのにやぶさかでないという点です。
もう一つ、自説を曲げるのに躊躇しない点も特徴的です。どちらも自我が最も不得手とするところなのです。自我は自説を意地でも曲げようとはしません。例え曲げざるを得ない羽目に陥ったとしても、渋々曲げることになるのです。従って、曲げた時点では事態は既に良からぬ方向にかなり進展していることになります。
59に続く

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潜在意識53

その53)
(イエスの神格化)
イエスを神格化して、神と同等の位置に置こうとしたのは彼の弟子たちであったのです。さらにイエスを救い主と信じたキリスト信者は、彼を神格化しようとしました。最終的にはローマカトリック教会が絶対的権威を保つために、イエスを神格化せざるを得なかったのです。イエスを神格化することで、キリスト教の基盤を揺るぎないものとしようとした意図を窺い知ることができるのです。
イエス自身は神格化されるつもりではなかったと思われます。彼は神の代弁者であり、神から裁きの権威を授かってはいましたが、神の子供という認識は崩さなかったからです。彼の心の隅々まで、意識だけでなく潜在意識の奥底まで神の考えが行き渡っていたので、実質的にも神とイエスは一体化していたと考えられます。
潜在意識さえも神の考えに満たされることは普通、あり得ないことです。イエスだからこそ、できた話なのです。潜在意識さえもが神の思いに満たされた状態を、キリスト信者は心が聖霊に満たされたと呼んでいるのです。
54に続く

その54)
(三位一体)
キリスト教では神・キリスト・聖霊を三位一体として捉えています。この中で潜在意識と深い関係があるのが聖霊です。神は全宇宙に遍く存在すると考えられています。キリストは神の権威を引き継ぎ、キリスト教国内に君臨すると捉えられています。聖霊はキリスト信者の潜在意識に深く分け入っている存在だと解釈できるのです。
これら三つの存在が役割分担しながら、人間存在を支えているというのがキリスト教の根本教義です。神の存在は偉大過ぎて、私たち人間には摑み切れません。キリストは神格化されてはいても、人間的存在として神と信者を結ぶ架け橋となっています。キリストなしに、人間は神と直接交渉することはできないとされています。
聖霊はキリスト者にとっても捉えにくい存在です。聖霊はもちろん眼には見えませんが、聖霊を受け入れた者の態度の変化により知ることは可能です。潜在意識にとっても聖霊は重要な役目を果たすので、ここでは聖霊を自我との係わりを通して明らかにしたいと思います。
聖霊はイエスの誕生と時を同じくして、脚光を浴び出した存在です。聖書によれば、聖霊がハトのようにイエスに下ったと言う記載があります。また違う箇所では、イエスの死後、集会中の信者の頭に舌のような炎が、天から下ったとの記載があります。
聖霊が目に見える存在というのは象徴的な描写としても、聖霊が下るという現象は、人間に何らかの変化をもたらしたのでしょう。潜在意識が聖霊に満たされるとは、一体どのような変化なのでしょう。
55に続く

その55)
(閑話休題)
シルバーウィークと言ってもサラリーマンではないから二日しか休めなかった。定年退職者は日割りで仕事をしなくてはいけないから5連休も取ったら収入が激減する。
飲料水自販機の社員も連休は無関係だった。町の自販機は休日でも稼動しているのが彼らの宿命になっている。品切れを起こさせないためには連休中も商品を補給せねばならない。
5連休などと言って安閑としていられるのはよほど余裕のあるサラリーマンであろう。
56に続く
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潜在意識50

その50)
(予知能力とイエス)
イエスは予知能力が人並み外れて高かったのでしょう。感性が鋭く、研ぎ澄まされていたからでしょう。相手の心理を見抜くことにも長けていたのです。彼の予知能力の高さは生まれつきという面もあるでしょうが、訓練によるところも大きかったと思われます。
彼が30歳を過ぎて公的生活に入るとすぐ、四十日間荒野で修業をしました。聖書では悪魔に試されたと書かれています。悪魔とは実に、彼の心に宿っていた悪魔のことなのです。彼は四十日間、自分の心と対決したのです。
心からすべての悪は発生します。イエスは心から涌き出る悪と対決して勝利したのです。彼が戦った悪は欲求から派生したものでした。一つは食欲、もう一つは所有欲、そして三番目は分かりにくいですが、神の力を試そうとする欲望です。
食欲と所有欲は人間が普通に持っている欲望です。ところが神の力を試す欲望とはユダヤ人特有のもので、日本人には縁が薄いものです。ユダヤ人と日本人の価値観の違いです。彼らにとって神の力を信じるかどうかは、人生における最重要要件の一つだったからです。
51に続く

その51)
 ユダヤ人は過去を大事にする民族です。日本人もかつてはそうだったですが、今は違います。彼らの生活は聖書を中心にして回っています。聖書とはユダヤ人の歴史の集大成なのです。その聖書では2,000年前に一人の救世主が待望されていました。
イエスは待望された救世主として、この世に現われたのです。彼を救世主と認める者はキリスト信者となりました。だが大半のユダヤ人はイエスを救世主とは認めなかったのです。だから今でもユダヤ教では、彼を単なる預言者としか見ていません。彼らは未だに救世主を待望している民族なのです。
イエスの行動は旧約聖書で預言されている内容に沿って、成就されて行きました。預言が一つ一つ成就される毎に、イエスは聖書と一体感を深めて行ったのです。彼の予知能力は聖書の言葉によって裏打ちされた内容だったのです。
彼自身が十字架上で処刑される内容も、聖書で既に預言されていた通りでした。イエスの体内には聖書の言葉、そのものが躍動していたのです。予知能力とは単に思いつきで、未来を語ることではないのです。過去の集成されたデータを基に、潜在意識がそれらを解析し、今後起こり得る現象を予測した結果、予知能力が発揮されたのです。
イエスを神格化するかどうかは別としても、彼が聖書をデータベースとした緻密な予知能力を備えていたことだけは確かなのです。
52へ続く

その52)
(閑話休題)
自然界では弱肉強食が一般的だ。さて人間はどうか。実は弱肉強食以上なのである。動物であれば当座の食料を確保しさえすれば弱者への攻撃は終わる。ところが人間は違う。弱者への攻撃は延々と続く。
また動物には欲求だけがある。ところが人間には欲求も欲望もあるから始末が悪い。当座の欲求が満たされても欲望は永遠に満たされることはない。結果として争いが絶えない。
ハンムラビ法では「目には目を」と復習を是認している。結果として復習は終わりのない争いを生み出す。クリスチャンとはこの悪の連鎖を断ち切った者を指す。争いを是認するキリスト教は本来のキリスト教ではない。
53に続く
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潜在意識47

その47)
(潜在意識と奇跡)
潜在意識が活性化されていれば、奇跡を起こしやすいのです。何故なら予見能力を身につけやすいからです。予見能力を身につけた者は、人民に対して驚異の念を抱かせるのに充分であるのです。
ノアは洪水を予見して、家族を救うことができました。アブラハムは神の声を聞き、子孫を増やすことに成功しました。ヤコブは夢の解き明かしに長けていたがために、王に重用されました。モーセは神の奇跡にすがって、イスラエルの民を奴隷の身分から解放したのです。
聖書に出て来る登場人物は、誰もが神と接触した経験を持ちます。神と接触するには潜在意識を通してでなければ不可能なのです。何故なら意識は神を否定しているからです。意識は五感で捉えられる存在しか認めないからです。意識にとっては潜在意識の存在すらも認められないことがあります。潜在意識は普通、見ることも感じることもできないからです。
48に続く

その48)
(予知能力と奇跡)
予知能力が優れていれば、奇跡は行えます。予知能力と奇跡は実に深いつながりがあるからです。
予知能力という点から言えば、人間は自然の生き物に劣っています。大地震前に異常な行動をする生き物がいます。彼らは自然界の異変にいち早く気づいているのです。彼らには人間とは違う感覚機能があるのでしょう。彼らの潜在意識が彼らに危険を告げ知らせるのです。
人間が自然界と深いつながりがあった時代には、自然界の異変に気付く機会も多かったことでしょう。彼らの中でも感覚が研ぎ澄まされた者が、予知能力を発揮し、自然災害から仲間を救ったことでしょう。潜在能力の際立った人間が予知能力を発揮したのです。
予知能力を持つ者は、持たない者から見れば驚異の存在です。予知が当たればカリスマ的存在と崇められたことでしょう。古代ユダヤ社会には予知能力が発達した人物が数多く存在したのです。彼らは神と人間をつなぐ架け橋と見られていたのです。
予知能力があれば、人に先んずることができるのです。予知能力のない者から見れば、予知能力者は奇跡を行なっているようにも見えるのです。奇跡とは普通、起こり得ない現象として捉えられています。ところが予知能力者から見れば、起こり得ない現象をも事前に察知できるのです。そこで皆がその現象の結果を知る前に、彼だけがその結果を予知したとすれば、彼が奇跡を起こしたと見做されることだってあり得るのです。
49へ続く

その49)
(閑話休題)
希望がないと生きていけない。希望とは将来に何らかの好転する兆しがあるとの予想である。人間には変化が必要だ。マンネリ化した毎日が永遠に続くと考えるほど恐怖なことはない。出口のない闇に取り残されることほど恐ろしいことはない。
50に続く

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潜在意識45

その45)
(イエスと潜在意識)
歴史上で最初に潜在意識をフル稼働させたのは、イエスであったのでしょう。彼は二千年前まで、心の外にあった神の世界を心の内にまで運び込んだパイオニアです。
イエスを生み出したユダヤ社会自体が、潜在意識を非常に重要視する傾向にあったのです。ユダヤ人の間で語り継がれている聖書の中にも、潜在意識を生活に活用していた人物が多く出て来ます。ノア・アブラハム・ヤコブ・モーセ・ダビデ・イザヤ・エレミヤ等、枚挙にいとまがありません。
聖書は目に見える現象だけを記載した書物ではないのです。人の心に浮かぶ心象までも記載した書物なのです。従って、目に見える現象を判断基準として、聖書を捉えると誤謬に陥ることになります。
聖書の中に記載されている多くの奇跡、特にイエスが行なった多くの奇跡を現象面だけで捉えると、現代人の多くは拒絶反応を起こすことでしょう。あまりにも信じられない奇跡が数多いからです。
旧約の世界で奇跡を行なう中心は神でありました。神が行なった奇跡によって、当時の指導者・祭司・預言者は力を得、助けられたのです。あくまでも神が主であり、彼らは従であったのです。
ところが新約の世界、つまりイエスが誕生してから事態は一変しました。イエスがいきなり神と同等の立場を主張するようになったのです。しかし、彼が自ら好んで、その立場を選んだわけではなかったのです。聖書の歴史が、彼にその立場を強要していたのです。
イエスは旧約聖書を神の言葉として成就するためには、神の地位に近づかざるを得なかったのです。彼が神の領域に足を踏み入れるには、意識だけを働かせるだけでは不充分だったのです。潜在意識を活用せざるを得なかったのです。そして彼は潜在意識さえも自由にコントロールすることに成功しました。
46に続く

その46)
(閑話休題)
外の仕事には閉口する。雨のためにズボンばかりでなく、パンツまでびしょ濡れになる。寒さが身に沁みる。
台風の日に外で仕事をしたので数日間のどの痛みと鼻水に悩まされた。今日になってやっと復帰できた気がする。この歳では無理は禁物だと分かった。今後は適度な仕事をしよう。
47に続く
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潜在意識42

その42)
(思い込みと抑圧)
「こうあるべきだ」との強固な判断基準が「思い込み」として、心に設定されている者は判断基準に合わない心の動きをできるだけ抹消しようとします。そのため自分ではストレスも欲望もないように感じてはいますが、潜在意識には鬱積したシコリが残っているのです。
ストレスとなる刺激が外部から襲って来ると、心は身構えます。身構えた時に、心は緊張状態に陥ります。心が緊張状態に陥ると、潜在意識自体は外界からの刺激に対して遮断されてしまうのです。
本来、私たちは潜在意識をなるべく活性化しておきたいのです。何しろ潜在意識の能力は測り知れないからです。それを遮断しては意味がないのです。
43に続く

その43)
潜在能力をフル稼働させるには、心の緊張を取り除くことが肝要です。ストレスとなりそうな外界からの刺激に対しても、身構え、力んではいけないのです。そうするには困難に対する耐性を強めておかなければなりません。幾多の困難を体験しさえすれば、すぐに身構える心は緩和されるのです。どんな状況でも、とにかく一度は受け入れてみようとの心づもりになれるものです。
心を顕わにし、無防備状態に置ける者は、潜在意識を最大限に活用できる筈なのです。外界からの刺激が直接、潜在意識に流れ込みやすいからです。
潜在意識を無防備にできた者だけが、きっと神にも近づけたのでしょう。歴史上、イエス・キリストは神に最も近づいた一人だったと言えます。それだけ心も身体も鍛錬して、意識の枠組みを外していたのでしょう。彼の弟子たちや教えを受けた者たちは、イエスから潜在意識を顕わにする方法の手ほどきを受けた筈です。
潜在能力のもとで深い心のつながりを育んだイエスと教え子たちは、意識では認知できない魂同士のつながりがあったのでしょう。魂でつながった者同士の一方が、この世から去ったとしたら、どのようなことが起こるのでしょうか。
44に続く

その44)
恐らく残された者たちは、亡くなった者の魂をいつまでも感じ続けることでしょう。肉体が眼の前から消え去ったとしても、心の目は依然として相手の魂を実体として捉えているのです。「蘇り」のイエスを目撃したのは、彼らの心の眼が充分に開かれていた証拠であります。
私たちも身近な存在、親や祖父母、友達を亡くした時には、彼らの面影がいつまでも心に残ります。魂のつながりが強ければ強いほど、まるで今でも彼らが生きているような錯覚に捉えられるのです。恐らく夢にも何度となく登場して来ることでしょう。
「蘇り」とは朽ちる肉体が目の前に現われる現象ではないのです。それは魂の奥底で結び合わされた者同士が、召された一方の存在を魂の目で認めた現象なのです。イエスの死は余りにも鮮烈で突然だったために、彼の信奉者の魂は彼を実在に等しい形として認めたのでしょう。
 もう一つイエスの死が特徴的であったのは、その死が無私の死だったからです。それを彼の信奉者や弟子達は知っていました。つまりイエスが彼らのために死んだとの気持ちを強く抱いていたのです。その結果、イエスと彼らとの魂の奥底での結びつきはいやが上にも強固になったのです。
45に続く

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潜在意識39

その39)
(神との一体化)
イエスは蘇りを通して、一挙に神格化されました。弟子達によって記述されたイエスの像は人間的な側面より、神としての側面が強調されていました。さらに後年、ローマがキリスト教を国教と認めるに至っては、イエスを神そのものと捉える信仰が絶対化されたのです。レオナルド・ダ・ヴィンチはローマ教皇の権威に反旗を翻したのです。そこで彼はイエスの人間的側面を示す事実を絵画の内に謎として描き込んだのです。
昔から神と一体化したり、神にまみえようと努力した人間は数多くいました。その中でほんの一握りの者だけが成功しました。アブラハム・モーセを初め、宗教歴史上に残る偉人は神を間近に見て、話す体験まで享受できたのです。
日本においても座禅を通して、一瞬なりとも自然の背後に潜む絶対者と一体となる試みがなされて来ました。精神統一をして、自然の気を感ずるというのも、神に同化し、潜在意識を呼び覚ます行為の一つです。これらすべてに共通する心理状態は意識を排除して、無意識世界で自然と一体化しようとすることであります。
意識が私たちの心を強く支配している間は、潜在意識の活動は許されてはいません。「蘇り」は意識から見れば、全く現実離れした出来事なのです。意識上では死んだ者は元へは戻らないと認識されるのが普通だからです。一旦死んだ肉体は元に戻ることはあり得ないからです。
40に続く

その40)
現実で起こり得ない事が夢では起こります。夢とは意識下の出来事が一瞬、意識上に上って来た現象であります。夢は心の奥底からの信号を私たちに伝えてくれます。夢判断が使い方によっては非常に有効なのも、夢が潜在意識の鍵を握っているからです。
夢を通して魂は苦痛の叫びを上げることがあります。日常では全く感じていないストレスや抑圧された欲望が夢に出て来ることがあります。私たちは日々、ストレスを感じたり、欲望を感じたりしていますが、意識はそれらを何とかして抑え込もうとしたり、忘れ去ろうとしたりしています。何故でしょうか。
欲望をあからさまに感じるのは恥ずべき心情であり、またストレスに余計な気を使うのは弱い心の表われだと、意識は思い込んでいるからなのです。
41に続く

その41)
(閑話休題)
スポットの仕事で駐禁対策というのがある。駐車禁止のステッカーを貼られないように車に待機しているアルバイトだ。私はある清涼飲料自販機会社のドライバーに何度か同行した。
彼は未だ25歳だった。体つきはがっちりしていた。後から知ったのだが学生時代柔道部だったそうだ。彼の考え方が古風で今の若者らしくないのが気に入っていた。
既に結婚し子供が三人いるのも驚異だった。彼は正に自分の身を粉にして働いていた。朝は5時に起き、帰りは夜の12時だった。いつ休むのだろうと気になった。
そんな過酷な状況の中でも彼は弱音を吐かず、常に前向きだった。苦労を自分から背負おうとする態度が身体から溢れていた。人の嫌がることを率先して行うタイプだった。
休みは辛うじて土日だけだった。それは家族サービスに使われていた。その彼が先日昇進した。マネージャーになった。予想していた結果だったのであまり驚きはしなかったが、嬉しかった。
42に続く

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潜在意識37

その37)
過去に味わった喜びをいつか再び、味わってみたいという欲望が、心に渦巻いています。身体も脳も衰える一方であるにも拘らず、欲望だけは過去をその原点としているのです。欲望と現実とのアンバランスが、特に老後の人生を狂わせることになるのです。
体力が峠を越えた者にとって、残りの人生は死に向かって、いかにスムーズに着地するかを考え、準備する時期なのです。平均寿命は格段に伸び、元気な老人が増えています。余生をできるだけ楽しみたいと考えるのは、当然な思いかも知れません。だが老後を安楽だけで過ごせば、死の恐怖は増大する一方だとの認識も深めておいた方が良いのです。
年老いても日々安楽だけではなく、労苦も追い続ける覚悟が必要なのです。病はなるべく避けた方が良いものの、病にならない程度に老体や老脳にむち打って、残りの生涯を燃やし続けるべきなのです。従って、生きている限り、何らかの仕事は続けた方が良いでしょう。肉体を使う労働は無理だとしても、頭と手先を使う労働はいつまでもできる筈です。体力がなくてもできる仕事を、若い時分から準備しておくべきなのです。
人生の下り坂においては、楽しみより苦しみが多いのは当然と受け止めた方が良いでしょう。そして襲い来る苦しみを避けようとするのではなく、老体でもできる仕事を貪欲に請け負って、さらなる苦しみを得ようと自ら欲せば、予期せぬ楽しみが必ずや眼前に現われ来るのは必至なのです。
38に続く

その38)
(閑話休題)
今は見かけ上、弱者が大事にされているように見える。得にメディアは表面上そうした傾向で動いている。でも現実社会では未だに弱者は疎まれている。

(蘇りと潜在意識)
 死を終着点と考える私たち現代人にとって、死は終わりではないと主張するキリスト教は理解の枠を超えています。キリスト教では死んでも天国に行くと信じられているからです。死んだ後に天国に行く信仰は、イエスの復活と深く係わっています。イエスの人間的側面が話題になっている昨今、イエスの復活を奇跡としてではなく、捉え直したいと思います。
キリスト教においてはイエスの蘇りが信仰の試金石となっています。蘇りを信じない者はここでつまずくのです。蘇りを字義通りに、そして科学的に解釈すれば、余りにも現実離れした出来事だからであります。キリスト信者によれば、聖書は神の声によって導かれて書かれていると言われています。
確かに聖書自体は神の声に導かれて書かれたかも知れません。ところが記述した者は人間である以上、文章の内に人間的な思いが混入していないとも限らないのです。特に新約聖書の記述は、殆どがイエスの弟子たちによってなされたものです。従って彼らの記憶を基にイエスの言動が記録されているのです。
イエス自身は本を著した訳ではありません。すべて弟子達が思い出しながら、或いは他の人の話を統合しながら、書き取ったのが福音書と呼ばれている四書です。その中で書かれた最後にして、最大の事柄がイエス・キリストの蘇りなのです。
キリスト信者は「蘇り」を心の支えとして生きています。一般の人々は「蘇り」を歯牙にもかけず、事実無根のこととして排除します。一体、両者の違いは何に起因するのでありましょうか。
私はイエスの蘇りは全員に目撃された事柄ではなかったと思うのです。ごく一部の者にしか認識できなかった事実なのです。一部の者とは、イエスの信奉者であります。イエス生存当時から彼を全面的に心に受け入れ、彼の思いそのものをも自分達の潜在意識にまで同化していた人々のみが、イエスの「蘇り」を目撃できたと思うのです。何故でしょうか。
 もし「蘇り」が意識上の出来事であったならば、イエスの直属の弟子達は蘇ったイエスの姿を最初に認めたことでしょう。ですが彼らには最初、イエスの姿が見えなかったのです。
心の目が開かれなければ、イエスの姿は認められなかったのです。つまりイエスの姿は意識で認められる様態ではなかったのです。理性が支配する意識では認められない世界の出来事だったのです。従ってイエスの姿を見ることができた者も確かにいたかも知れませんが、それを論証することはできないのです。何故なら論証とは意識の世界でのみ通用する方法だからであります。潜在意識が関与する世界の出来事を論証することはできないのです。
39に続く


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