潜在意識56


その56)
(潜在意識に聖霊が入り込む)
潜在意識に聖霊が入り込むのは、いつのことなのでしょうか。イエスを救い主として受け入れたクリスチャンの心は瞬間的に、劇的に変化すると言われています。何故でしょうか。
私たちがイエスを心に受け入れるとは、正確に言えば自我を一度、捨て去ることを意味するのです。意識の中心的存在である自我を捨て去るのは勿論、容易なことではありません。一大決心が必要なのです。
イエスと自我は両立しません。イエスは私たちの自我に敵対さえするからです。自我の束縛から自由になった心は、初めて潜在意識に目を向ける余裕が生まれるのです。ですから自我の勢力が最高潮に達する青年期に、イエスを受け入れることは奇跡に近いのです。よほどの困難な状況に襲われるかした結果としての、大きな心の転機が必要なのです。
一瞬の内に自我が消え去った心は、空虚そのものです。その空虚さを目指して入り込んで来たのが、聖霊と呼ばれる存在です。聖霊自体は実態がないのですが、聖霊が入り込んだ後の心が、劇的に変化することでその存在が知れるのです。
その変化とは180度、変わるほどの変化なのです。自己中心の心がいきなり、他者との共存を優先する心に変化するのです。心の変化は表情の変化・行動の変化をももたらします。不満は満足に、怒り・悲しみは喜びに変わるのです。
人格そのものまで変化したとも見られる状態は、外部から霊が個人に入り込んだとして解釈するのが自然なのです。こうして外部から心に入り込む霊を聖霊と称しているわけです。
57に続く

その57)
(聖霊を汚す)
イエスは聖霊を汚すことを厳しく戒めました。神を汚すことは許されるが、聖霊を汚すことは許されないとまで言ったのです。聖霊を汚すとは自分自身をないがしろにすることだからです。ここでの神は、私たちの外にいる存在として捉えられています。
自然界を統率する神を汚し、神に敵対するのは望ましいことではありません。神からの助けが期待できないからです。ところが、それ以上に聖霊を汚し、聖霊に敵対することは絶対あってはならないことなのです。
聖霊に敵対するとは、自分に敵対することにつながるからです。自分が自分に敵対したら一体、どうなってしまうのでしょう。国が内部で分裂するようなものです。内部分裂した国が外敵と太刀打ちできるはずがないのです。
潜在能力を活性化させる聖霊を汚すとは、潜在能力の力を否定することでもあるのです。潜在能力が心の拠り所となっている私たちが、それを否定することは本来あり得ないことなのです。
58に続く

その58)
(聖霊を活用する)
私たちは聖霊を活用することで、独断を避けることができるようになります。独断は大概、自我によってなされる判断です。心に聖霊を受け入れ、自我の勢力が弱まると独断は消え、決断した後にも自省するようになるのです。
自省とは振り返りであり、決定した事柄でも実施後、経過観察は怠らないことです。そして少しでも不都合な状況が生じるようであれば、当初の決定をも覆すのに、やぶさかでない点が独断とは決定的に異なります。聖霊が有益な点は、自説を曲げるのにやぶさかでないという点です。
もう一つ、自説を曲げるのに躊躇しない点も特徴的です。どちらも自我が最も不得手とするところなのです。自我は自説を意地でも曲げようとはしません。例え曲げざるを得ない羽目に陥ったとしても、渋々曲げることになるのです。従って、曲げた時点では事態は既に良からぬ方向にかなり進展していることになります。
59に続く

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