キリスト教と言葉

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生きにくい11

その11)
(固定観念を取り除く)
一度、意識に定着した固定観念を取り除くには、相手の良い部分を見つけ、それを事ある毎に、心に焼きつけるしかありません。悪い観念を植えつけられたのとは、逆の作業をするのです。これは言葉で言うほど、簡単なことではありません。
先ず固定観念を抱くに至った原因を探ってみる必要があります。二人が悪感情をお互いに抱く、きっかけとなった出来事が必ずあるはずです。仕事上、生活上の一こまであなたと相手は口論したかも知れません。または心のすれ違いがあったかも知れません。
その場面で一方が傷つけば、相手に対する悪感情が芽生えます。それでも、もう一人がその場で引き下がれば、それ以上、お互いの悪感情が発展することはありません。ですが引き下がる人は稀なのです。
大概、傷つけられた方は相手に仕返しをするのです。一般社会では言葉による暴力が多いのです。これで貸し借りはゼロです。ところが、お互いの心にはしっかりと、しこりだけが残りました。心のしこりが固定観念の基なのです。
一度できてしまった固定観念を取り除くには、時間の助けを借りねばなりません。憎む相手をすぐに、許すことなどできないからです。傷つけた相手が心を入れ替え、土下座でもすれば、許すこともできましょうが、現実にそんなことはあり得ません。仲たがいをした者同士は、お互いが自分こそは正しいと思っているものです。
相手の出方を待っていても、らちが明かない時はあなたが謝るか、許すしかないのです。もし、どちらも行動を起こさないならば、平行線のままいつまでも仲たがいは続くことになるのです。
ここで今後の対応として有効利用できる教訓が一つ残ります。
相手の言動によりあなたが傷つくことがあっても、その仕返しはしないことです。その相手をそれだけの人間と割り切って捉えれば良いのです。そうすれば、その場面で再び衝突することにはならないのです。そして心のしこりは最小限に留まります。
問題のある人間はどこにでもいるものです。そういう相手はあなたにだけ問題を起こしているわけではないのです。あなたがその相手の言動で心を取り乱しては、あなたの損なのです。何故なら、心を取り乱した瞬間から、あなたの心はその相手をいかに反撃するかに、全神経が集中し、他の建設的な仕事に力を注げなくなるからです。
破壊的な固定観念に心を満たされると、あなたの意識は周りの人々、すべてに対して否定的な感情を抱く傾向も出て来るのです。やがて本来、友好的な潜在意識は心の隅に押しやられ、あなたは社会そのものさえ否定的に見るようになってしまうのです。
こうした否定的で破壊的な固定観念に陥る前の予防が大事なのです。
12に続く
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天国と復活

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生きにくい10

その10)
(人間関係)
仕事上だけに限らず、私たちの欲求充足の上で、助けとなったり、障害となったりするのが人間関係です。学校に入るまでは、親・兄弟・友達といった身近な人々で構成された、良好な人間関係の中にどっぷり浸かっていました。
やがて小学校に行くと、見ず知らずの友達の中に入り、教師という新たな存在に出会います。友達の中には友好的な者もいますが、敵対的な者もいます。教師も指導を受けてみるまでは、好意的か敵対的かは全くつかめません。
いずれにせよ、私たちは選択の余地の全くない、クラスという小集団に放り込まれるわけです。その中で好ましくない相手とも、上手く過ごすしかありません。子供にとって、学校もクラスも選ぶことはできないからです。
社会に出ても状況はあまり変わりません。会社は選べますが、その中での人間関係は選べないのです。たとえ、良好でない人間関係の中でも、私たちが周りに合わせるしか方法はないのです。
唯一、選べる人間関係があるとすれば、結婚するパートナーでしょう。結婚相手はほぼ個人の自由で選べますが、結婚生活を始めると、予想と反する相手の面に気づくことも往々にしてあります。

(仕事上の人間関係)
仕事の対象は物であったり、金であったりしますが、どんな場合でも人間関係は付きまといます。サービス業などは、人間関係そのものが仕事なのです。仕事を楽しみ、職場での時間を有意義なものとするには、人間関係を良好に保つしかないのです。
もし同じ職場に一人でも、あなたに敵対する人がいるならば、早急に良好な関係を築くようにした方が良いでしょう。もしお互いの心にわだかまりがあると、心はその相手に対して頑なになります。頑なになった心は真実を見ることができません。
心が頑なになると、極度の思い込みが発生します。嫌な相手に対しては、どんな行動でも否定的に見えてしまうのです。相手が手柄を立てても、それを誉めることができないばかりか、いとわしく感じたりします。その状況は正に心が病んでいるのです。
自分の心が病んでいるにも拘らず、病んでいる原因を相手に転嫁する場合もあります。私たちは相手のせいにして自分を守ろうとします。お互いが相手のせいにしている限り、事態は改善されるどころか、悪化する一方でしょう。自分の心の病には、いち早く気付きたいものです。
相手に憎しみを持ち、心をブロックした途端、恐らく相手も同じ感情を抱いているのです。相手との軋轢を取り除くには、あなたの心が抱いている、相手に対する固定観念を一度、白紙に戻すしかないのです。固定観念が心をくぐもらせ、負の感情を潜在意識にまで植えつけているのです。
固定観念を取り除く方法はあるのでしょうか。

11に続く
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生きにくい9

その9)
(仕事と遊び)
遊びでは身も心もリラックスして楽しめるのに、仕事ではストレスばかり感じるのは何故でしょうか。遊びと仕事との根本的な違いは、一体どこにあるのでしょう。
遊びは心のおもむくまま、自由に始め、飽きたら止められます。ところが仕事はそういうわけにはいきません。就業時間中は身も心も職場に拘束されるのです。従って、仕事中にあまりリラックスはできません。もし仕事中でもリラックスした気分でいたいのなら、仕事を選ぶ際に遊びの延長線上で考えるしかないのです。
仕事は人から与えられるから苦痛に感じられます。自ら創り出した仕事は、あまり苦になりません。上司から命令された作業は嫌なものですが、自分が発案した作業には気持ちを集中できるものです。何故でしょうか。
人から与えられた仕事をこなす時、作業は意識が主体でなされ、潜在意識に出る幕はありません。決まりきった作業であれば、尚更そうです。潜在意識が発動されるのは、自発的で創造的な仕事をこなす時だけです。そうした条件に合う仕事は、遊びの延長線上で探すのが近道なのです。
自分の好きなことであれば、どんな困難な仕事にも全精力で打ち込めるものです。何故なら、一つの困難に向かい、意識も潜在意識も一致協力して立ち向かうからです。潜在意識に加勢を頼むには、意識はその仕事に対して喜びを感じていなくてはいけません。その仕事に対して、意識が苦痛を感じていたり、初めから「できない、嫌だ」と決め込んでいたら、潜在意識が登場する余地はないのです。

(仕事を楽しむ)
遊びに直結した仕事に就ける人は幸せな人です。大多数の人々は仕事と遊びを全く、切り離して捉えています。何故でしょうか。
仕事で金を稼ぎ、稼いだ金で遊ぶというように、仕事と遊びを対比して考えているからです。仕事と遊びは全く両立し得ない対極として捉えるのが、高度経済成長時代には一般的な考え方でした。仕事で辛い思いをしても、レジャーで発散すればリフレッシュできると考えていたのです。
ところが最近では、遊びと仕事を合体させるという考え方に目覚める若者が、増えて来ています。金を稼ぐためだけに、仕事で苦痛を耐え忍ぶのは意味がない。時間の無駄だと考え始めた若者もいます。
「仕事は楽しむものではなく、仕方なくこなすものだ」という固定観念がいつ、どのようにして私たちの心に入り込んだのかは分かりません。学校を卒業し、就職先を決める時には、第一に企業は知名度と給料を最優先の選択基準として選ぶ人がいます。逆に遊びの延長として、ミュージシャンという仕事を選ぶ価値基準の人もいます。
多くの場合、自分の適性を調べ、興味のある職種・企業を希望しても、その願いが叶うわけではありません。仮に願い通りの会社に入れたとしても、想像と現実は違うことが多いのです。
幸運にも遊びの延長で仕事を選べたとしても、遊びでは楽しかったはずの対象が、仕事となった途端に、嫌気が差すこともあり得るのです。いくら興味のある対象でも、仕事として捉えた瞬間、何らかの条件が付加されます。そうすると仕事が苦痛に変わるのです。中でも最大の条件は人間関係にあります。
好きだと思って、選んだ仕事に希望が持てなくなるのは、人間関係につまずくことが原因であることが多いのです。何故、社会では人間関係がクローズアップされて来るのでしょう。
それは遊びの世界では、好きな相手と遊ぶ自由が私たちには与えられています。ですが仕事では、上司や同僚、取引先を思い通りに選べることは、ごく稀だからです。仕事の世界では相手を選べないのです。
仕事においては、物に向き合うだけでなく、人と向き合わねばなりません。私たちは欲求充足の場面で出会う、人との係わり合いの中で、様々なストレスを感じることになるのです。
そこで仕事を楽しむためには、周りの人たちとの係わり合いを抜きにしては語れません。
10に続く

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生きにくい8

その8)
(欲望)
あなたの行動を牛耳っている、心の裏側に潜むもう一つの存在が欲望です。欲望とは欲求に尾ひれがついたものと言えるでしょう。欲求が芽生えると心の中には、イメージを伴った欲望が膨れ上がって来ます。
残された一週間を有意義に過ごすためには、欲望を抜きにしては話しができません。欲望とは悪い意味で使われることが多いようです。でも欲望こそが私たちの生きるエネルギー源ともなるのです。
あなたが一瞬一瞬、欲望のおもむくままに生き、満足が得られ、尚かつ周りの人々と何ら問題なく、調和して生きられる状況が現実となったら、素晴らしくはないでしょうか。そんな事は所詮不可能だと思うでしょうが、それを可能にして生きている人々がいることは確かです。
あなたにもその仲間入りが、きっとできるはずです。それには、自己の欲望に目を向けることが大事なのです。欲望を満たすことに後ろめたさを抱いてはいけません。私たちがこの世に生を受けた理由は、欲望を順当に満たすためにこそ存するからです。
順当と言うのがミソです。なりふり構わず満たすわけではないですし、がむしゃらに満たすわけでもありません。欲望を抑えるか、抑えないかは、個人個人の考え方によります。欲望自体を罪悪視する見方もあるくらいです。確かに欲望を全く抑えてしまえば、外界との衝突がなくなることは確実です。色々な宗教の立場は欲望を罪悪視しているものが多いのです。
人間の欲望を完全に否定すれば、平穏無事な人生を歩めるのかも知れません。でもその選択はあまりにも極端過ぎます。もし欲望を際限なく否定すれば、心の裏側を力ずくで締め付けることにもなりかねません。その結果、締め付けられた心は、基本的な欲求を顕わにすることさえ、躊躇するようにもなります。

(欲望と遊び)
遊びは人間特有の欲望です。仕事でも勉強でも、その基本は遊びにあります。衣食住の欲求が満たされた人間は、遊びに向かいます。特に子供にとって、遊びは衣食住以上に大事な欲求です。遊びこそがゆくゆく趣味となり、勉強に発展し、仕事に開花するからです。
心底、打ち込んだ遊びが趣味となり、仕事に生かされ、向上心が勉学を促せば、それ以上の快楽はこの世に存さないのです。それほどの贅沢は言わずとも、趣味が仕事に生かされるだけでも有り難いことです。仕事を単に、金を稼ぐ手段とだけは考えたくはありません。
遊びの特徴は、それ自体が目的であり、結果だと言うことです。誰かに褒められるからとか、誰かに喜んでもらえるとかの理由で、遊ぶわけではありません。楽しいから遊ぶ。ただそれだけです。遊びこそ、打算も何もない無我の境地なのです。
誰でも寝食を忘れて、遊びに興じた思い出はいくつかあるはずです。その時、あなたの全神経は遊びに集中していたはずです。その時、あなたの心の表面も裏面も、つまり意識も潜在意識も協力して、遊びに熱中していたのです。
その瞬間は正に、あなたの潜在意識そのものが、全く解放され、思いのままに振舞えた至福の時であったに違いありません。
9に続く

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健康な人に

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生きにくい7

その7)
(自己を知る)
私たちは自己を知っているように考えています。ところが私たちが知っているのは、自己のごく一部だけに過ぎません。心の表面については確かに知っていることもあるでしょう。しかし、心の裏側については、ほとんど何も知らないのです。自己を知っているように思うのは錯覚にも等しいのです。
自己を知らなくても毎日、生きて行かねばなりません。心の裏側を知らないで生きるとは無謀と言えば無謀です。何故なら、私たちの欲求や感情といった、すべての行動を促す元になる要因は、すべて心の裏側から出て来るものだからです。
どのような経緯で出て来るかも知れない、欲求や感情をコントロールするとは、至難の業です。それらが行動となって現われた後に対処しても遅すぎます。怒りを爆発させてしまった後は、取り返しがつきません。だったら欲求や感情を事前に察知して、上手く対処する方法はないものでしょうか。
それらがどこから湧き出るものかも、知りようがないのですから、いつ湧いて来るのか、事前に察知するのは全くもって不可能のようにも思えます。
ですが欲求や感情が湧くか、湧かないかの瞬間に、チェック機能を働かせて、俊敏に対処することはできるはずです。怒りやイライラが心に湧き上がる瞬間に、それらを察知し大事に至らない対応ができれば、トラブルは未然に防げるからです。
食欲・性欲・支配欲・名誉欲と、欲求は数多くあります。怒り・悲しみ・喜びと、感情もいくつかあります。それらがどのような経路で心に生成するかは、良く分かりません。それぞれの欲求や感情が湧き出た瞬間、あるいは湧き出そうになる瞬間に、採るべき対処法を身に着けておけば、非常に便利ではないでしょうか。欲求や感情にむやみに振り回されて、失敗に及ぶことがなくなるからです。
それには、自分が外界からのどのような刺激に対して、これらの欲求やら感情が生成されるかを、つぶさに知っておく必要があります。刺激に対する自己の反応の仕方を知ることが、何はともあれ自己を知る第一歩です。

(感情と欲求)
感情は刺激なしに湧き出ることはありませんが、欲求は刺激がなくとも湧き出るものです。喜びや悲しみ・怒りは、必ず何らかの刺激によって湧き上がります。他方、時間が来れば、自然にお腹は空くでしょう。特に刺激が必要というわけではありません。
ただし大好物の食事が目の前に出て来れば、食欲は増大します。男なら魅力的な女性の写真を見ただけで、その気になり、性欲は燃え上がります。こうして外界からの刺激は、忘れかけていた欲求を思い出させることがあります。だから欲求は自然に発生するとは言え、外界からの刺激によっても大いに左右されるものです。
そこで自己を知る重要な手がかりが見えて来ました。私たちの行動を促す欲求と感情を、もっと良く知れば良いのです。その内でも重要なのは、自然発生する欲求です。先ず自己の欲求を探ってみることにしましょう。
「あなたは何がしたいですか」という質問は漠然とし過ぎています。「もし」をつけた質問で、内容を際立たせてみましょう。「もしあなたが残り一週間しか生きられないとしたら、何をしたいですか」
この質問の答えを考える時には、すべての社会的条件は白紙に戻した方が良いでしょう。法律的な規制も外すと良いでしょう。つまり「あなたが何でも自由に制約を受けずに楽しめるとしたら、何をしたいですか」という質問に直してみましょう。
その答えがすぐに頭に浮かぶでしょうか。そして、その答えはあなたの現状の姿に近いでしょうか、それとも、全くかけ離れているでしょうか。その答えいかんで、あなたが目指す人生の姿が見えて来ます。
たらふく食べたり、飲んだりして生涯を終わりたいのか。ハーレムで最期を遂げたいのか。海外旅行にすべてを賭けたいのか。人それぞれ願いは違うことでしょう。
いずれにせよ、そこにはあなたの本音に近い願望が息づいているのです。
8に続く

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