潜在意識37

その37)
過去に味わった喜びをいつか再び、味わってみたいという欲望が、心に渦巻いています。身体も脳も衰える一方であるにも拘らず、欲望だけは過去をその原点としているのです。欲望と現実とのアンバランスが、特に老後の人生を狂わせることになるのです。
体力が峠を越えた者にとって、残りの人生は死に向かって、いかにスムーズに着地するかを考え、準備する時期なのです。平均寿命は格段に伸び、元気な老人が増えています。余生をできるだけ楽しみたいと考えるのは、当然な思いかも知れません。だが老後を安楽だけで過ごせば、死の恐怖は増大する一方だとの認識も深めておいた方が良いのです。
年老いても日々安楽だけではなく、労苦も追い続ける覚悟が必要なのです。病はなるべく避けた方が良いものの、病にならない程度に老体や老脳にむち打って、残りの生涯を燃やし続けるべきなのです。従って、生きている限り、何らかの仕事は続けた方が良いでしょう。肉体を使う労働は無理だとしても、頭と手先を使う労働はいつまでもできる筈です。体力がなくてもできる仕事を、若い時分から準備しておくべきなのです。
人生の下り坂においては、楽しみより苦しみが多いのは当然と受け止めた方が良いでしょう。そして襲い来る苦しみを避けようとするのではなく、老体でもできる仕事を貪欲に請け負って、さらなる苦しみを得ようと自ら欲せば、予期せぬ楽しみが必ずや眼前に現われ来るのは必至なのです。
38に続く

その38)
(閑話休題)
今は見かけ上、弱者が大事にされているように見える。得にメディアは表面上そうした傾向で動いている。でも現実社会では未だに弱者は疎まれている。

(蘇りと潜在意識)
 死を終着点と考える私たち現代人にとって、死は終わりではないと主張するキリスト教は理解の枠を超えています。キリスト教では死んでも天国に行くと信じられているからです。死んだ後に天国に行く信仰は、イエスの復活と深く係わっています。イエスの人間的側面が話題になっている昨今、イエスの復活を奇跡としてではなく、捉え直したいと思います。
キリスト教においてはイエスの蘇りが信仰の試金石となっています。蘇りを信じない者はここでつまずくのです。蘇りを字義通りに、そして科学的に解釈すれば、余りにも現実離れした出来事だからであります。キリスト信者によれば、聖書は神の声によって導かれて書かれていると言われています。
確かに聖書自体は神の声に導かれて書かれたかも知れません。ところが記述した者は人間である以上、文章の内に人間的な思いが混入していないとも限らないのです。特に新約聖書の記述は、殆どがイエスの弟子たちによってなされたものです。従って彼らの記憶を基にイエスの言動が記録されているのです。
イエス自身は本を著した訳ではありません。すべて弟子達が思い出しながら、或いは他の人の話を統合しながら、書き取ったのが福音書と呼ばれている四書です。その中で書かれた最後にして、最大の事柄がイエス・キリストの蘇りなのです。
キリスト信者は「蘇り」を心の支えとして生きています。一般の人々は「蘇り」を歯牙にもかけず、事実無根のこととして排除します。一体、両者の違いは何に起因するのでありましょうか。
私はイエスの蘇りは全員に目撃された事柄ではなかったと思うのです。ごく一部の者にしか認識できなかった事実なのです。一部の者とは、イエスの信奉者であります。イエス生存当時から彼を全面的に心に受け入れ、彼の思いそのものをも自分達の潜在意識にまで同化していた人々のみが、イエスの「蘇り」を目撃できたと思うのです。何故でしょうか。
 もし「蘇り」が意識上の出来事であったならば、イエスの直属の弟子達は蘇ったイエスの姿を最初に認めたことでしょう。ですが彼らには最初、イエスの姿が見えなかったのです。
心の目が開かれなければ、イエスの姿は認められなかったのです。つまりイエスの姿は意識で認められる様態ではなかったのです。理性が支配する意識では認められない世界の出来事だったのです。従ってイエスの姿を見ることができた者も確かにいたかも知れませんが、それを論証することはできないのです。何故なら論証とは意識の世界でのみ通用する方法だからであります。潜在意識が関与する世界の出来事を論証することはできないのです。
39に続く


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