潜在意識29

その29)
(閑話休題)
私たちは相対的に物事を考える傾向がある。つまり自分を基準として相手と自分の状況を比較するのである。絶対的比較とは自分の中だけで過去と現在を比較することである。人は絶対的比較をする限り大きく道を踏み外さないで済む。
ところが現状はどうか。相対的比較が益々まかり通る時代となっている。何故ならメディアが発達し、嫌がおうにも自分と他人の境遇を比較する機会が増えているからである。
聖書は大きく2つに分けられている。旧約と新約だ。イエス・キリストの教えを中心に書かれているのが新約だ。2つの違いは何だろうか。一言で言うと旧約は絶対的に書かれ、新約は相対的に書かれている点だ。
旧約でも後期には相対的に書かれている箇所が幾つかある。詩篇とヨブ記などだ。その2つとも自分を中心において他人を比較する記述が多い。
イエスは旧来の記述をすべて解釈しなおし、旧約の絶対的比較を相対的比較に直し個人に提供した変革者だ。彼は人間の本質を見抜き、人間は相対的比較の世界に生きていることを知っていた。
昨日、夢に以前潰れた会社の社長が出て来た。全くのワンマン社長で気を遣って接していた。親のすねをかじって経営していたが、遂に彼の会社は潰れてしまった。私は彼に酷い仕打ちを受けた時、恨んだこともあったが、最後は哀れに思った。
もう一人、上司で恨んだ人物がかつて夢に登場した。彼のパワハラは陰湿だった。年は10歳弱私より上だった。その彼は20年ほど前、病死したと聞いた。恨みは哀れみに変わった。
私も相対的比較の世界で生きている。かつては幅を利かせていた人物が次々に不幸な目に会って倒れた。一時的な栄華を味わった彼らは結局、自分の撒いた種で滅んでしまった。
30に続く

その30)
(潜在意識と過去)
私たちの潜在意識を束縛している第一の原因は過去です。過去に体験した、すべての思いが想念となって、心に渦巻いています。想念の中でも、負の感情である、怒り・恨み・悲しみ等を伴うものは、心の重荷となり、潜在意識の自由な発動を妨げているのです。どうすれば過去の呪縛から自由になれるのでしょうか。
過去を忘れ去ると言うのが、手っ取り早い手段でありましょう。私たちは意識して憶えることもできる代わりに、忘れることもできます。気晴らしとは、嫌な思い出を消し去ろうとする一つの手段です。嫌な思い出は楽しい出来事に掻き消されて、一瞬消失したように見えます。ところが、嫌な思い出は決して、消えることはないのです。意識出来なくなっただけで、無意識下に沈み込んでいるのです。
無意識下に沈み込んだ嫌な思い出は、ひょんなきっかけで、再び心に現われます。また夢の中で鬱積した思いとなって、現われたりもします。記憶の底に押し込んだつもりが、未だその勢力は衰えていないのです。
それらの嫌な思い出は、時間の経過と共に、印象は薄れて行く性質を持ちます。ところが、今一度、再会し対決せねばならない時が必ずやって来るのです。それは私たちが死に直面した時です。人間が死を間近に見据えた時、対決しなくてはならないのは過去の記憶なのです。楽しい思いも、辛い思いも、その時、一挙に湧き上がり、私たちはその清算に追われることになるのです。
31に続く

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