潜在意識28

その28)
(イエスの奇跡と潜在能力)
 ここで潜在意識と祈りを多用し、ユダヤ教から新たな宗教を築き上げたイエスについて、少しの紙面を割こうと思います。西欧文明の基ともなったキリスト教の始祖は、一体どのようにして潜在能力を活用したのでしょう。信仰者の間では神の子として捉えられているイエスを、ここでは人間的側面から考察したいと思います。
祈りの人と言われたイエスの奇跡が、新約聖書と言う書物には数多く記載されています。それがため彼は神の子と崇められています。私はその考えには肯んじ得ません。奇跡を行なう力が備わっていたから、神だと結び付けるのは、いかにも短絡的過ぎます。短絡的過ぎるが故に、知的労働者からはキリスト教は白眼視されることになるのです。
イエスは奇跡を行なったがために、偉大であったのではありません。彼は潜在意識をフル稼働して、それを自分のためではなく、他人のために使ったから偉大なのです。そして最後には、古からの預言通りに、人類のためにその身を神に捧げたのです。
イエスの研ぎ澄まされた潜在意識が、すべての奇跡を可能にしたのです。彼は幾多の修練と祈りによって、自我と言う意識を滅却し、潜在意識を表面にまで導き出すことができました。そのため、彼の感性は研ぎ澄まされ、相手の心を見抜く事をも容易ならしめたのです。
私たちの判断を誤らせる最大の原因は、自我に付着する思い込みや偏見です。もし、それらの悪感情から自由になれたなら、私たちの潜在意識は自由を取り戻し、有力で効率的な働きをすることになるでしょう。イエスは私たちが到底、達しえない感性の高みにまで到達することができたのです。
だから人の心を読み取ることができたのです。相手が何を考えているかを読み取れる能力は怖いものです。相手が自分を好いていれば良いですが、嫌っているならば、それを知ったとて苦痛は増すばかりだからです。
イエスはきっと、公的生活の三年間、精神的苦痛ばかり味わっていたのでしょう。彼は同胞のユダヤ人たちから高く評価されてはいなかったからです。従って最後の晩餐で弟子のユダが裏切ることを知った後、早く処刑されて、ホッとしたと言う面もあり得るでしょう。
奇跡を行なうには、自我が透明に近くなり、影響力が減っている必要があるのです。自我が表にある限り、自分の力を過信する誤りを犯すからです。自分の力で奇跡をなしているという高ぶりが、心に湧き出た瞬間、奇跡は効力を失ってしまうのです。奇跡は単なる日常行為にまで転落してしまうのです。
29に続く

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