潜在意識34

その34)
(閑話休題)
私は同じ職場に10年以上いたことがない。アルバイトを含めれば10を優に超える職場を転転とした。退職の動機は何であったか。
その職場では自分を生かせる可能性が無くなったことだった。技能的にも収入の面でも今後大きな進展が見込まれない予測を元に他の職場に移った。
私たちに必要なのは希望だ。明日は今日より良くなるという希望を抱いて今を生きている。明日が今日と同じかそれ以下だと知っていたら生きる希望は失せる。
35に続く

その35)
(罪からの解放)
 自分史を書く上で大きな障害があります。それは罪意識です。過去に自分が犯した過ちを思い出す時、必ず心に浮かんで来るのが後悔の念と罪意識です。失敗をいつまでも「くよくよ」考えて、落ち込むのは動物にはない、人間特有の感情です。
 罪から自由になる方法もあるのですが、ここでは触れません。何故ならあまりにも宗教的になってしまうからです。

(生きる)
生きる上で、喜びと悲しみとはどちらが多いのでしょうか。どちらかと言えば、喜びよりも悲しみや苦しみの方が多いような気がします。特に人生の後半においては、その度合いが強くなるようです。だから日本の年間自殺者数は、ここ数年3万人を下らないのです。
人間は古来、不老・不死を求めて止まなかったのです。そして不老・不死の薬を探す旅に出た者も数多くいたと聞きます。私にとって不老はまだしも、不死を手にする事はこの世の地獄であるようにも思います。人間は身体が弱り、精神が穏やかになり、魂が満たされた状態で最終ゴールの、死を迎えるのが最も幸せなことなのです。
いつまでも若くありたい、できるだけ永く生きたいという願望は、裕福な立場の者だけが持つ、贅沢な願望なのです。毎日、生きる為にその身を擦り減らしている者達にとっては、死とは燃やし尽くした生に与えられる勲章でもあるのです。
逆の見方をすれば、死を恐れている者は生を燃やし尽くしていないとも言えます。生きる上で苦労もせず、安楽な生活を営む者にとって、死は恐怖以外の何物でもありません。何故でしょうか。快楽の絶頂を味わっている自分と自分が所有する、すべての財産と惜別する時、最大の心の痛みを味わわねばならないからです。
36に続く

その36)
肉体は自然に衰えるようにできています。それは自然の摂理です。もし肉体を構成する細胞が分裂を繰り返し、しかも衰えることがなかったなら、いつまでも増殖し続けるだけに終わることでしょう。古いカスはいつまでも残り、新しい芽が生え出るのを妨げもすることでしょう。古い細胞は時の流れに従い、いつかは消え去らねばならないのです。同じ様に、古い人間も新しい人間に生きる場を譲る宿命にあるのです。
新しい生命体が誕生し、それを構成する細胞は分裂を繰り返す。古い細胞は老廃物として除去され、新しい細胞が、次の役を担う。一つの細胞が分裂する毎に、細胞は同じではいられません。質の変化も当然、起こるのでしょう。分裂後の細胞は単純に考えれば、質的にその価値が半減することになります。量的に倍増した分、質的には半減するのです。こうして細胞単位の老化が進行するのでありましょう。
生命体の細胞は日々刻々、分裂を繰り返し、変化しています。ところが、私たち人間は変化や老化を許容したがらない傾向にあるのです。何故でしょうか。記憶には人生最盛期の情報が保管され、その情報にいつまでも縋り付く傾向が強いからです。私たちは現状を見ているようで、実は過去に執着しているのです。
37に続く
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潜在意識31

その31)
過去を清算する上で、一体どちらの思いを清算するのが困難でしょうか。楽しい思い出でしょうか、辛い思い出でしょうか。楽しい思い出と訣別するのは確かに辛いものです。楽しい思いが数多くあれば、私たちの思い出は甘い蜜のように、いつまでも私たちに心地よい香りを放ち続けます。死の瞬間を念頭に置けば、蜜はなるべく少ない方が訣別はし易いでしょう。
他方、辛い思い出との訣別は、どの様に受け止められることでしょう。安易に考えれば、辛い思い出と一切、手が切れるのは最上の喜びであるように思えます。事実、辛い思い出だけに満たされた人生を終わらせるのに、自殺を選ぶ者は後を絶ちません。
辛い思い出を死の瞬間に清算するのは、果たして最良の道でしょうか。この世を去る最後の最後まで、嫌な思い出を記憶の底に封じ込めておくのは、多大な無理があるのではないでしょうか。
「臭い物には蓋」をしておいても、臭い物の存在が消える訳ではないのです。臭い物の影響力は潜在意識を介して、意識にまで及んでいるように思われます。それならば臭い物は、完全に取り去っておいた方が後々、安心なのではないでしょうか。
32に続く

その32)
(閑話休題)
終戦70年を迎えて戦争論議が盛んだ。人間に欲望がある限り戦争は必ず起こる。もし戦争に反対し平和を唱えるなら日常の争いから改めるべきだ。個人の争いも回避できずに戦争の回避は不可能だ。
誰でも権利を侵されれば怒る。怒りを尊重すれば争いは必ず起きる。しかし怒りを暫し抑えて理性を働かせその争いでの損得を考慮した結果、争いによっては損をすると分かった。その時点で争いを止めるのが本当の勇気だ。
33に続く

その33)
(辛い過去と向き合う)
辛い過去の傷跡を潜在意識からも取り去るには、いつかは、それらに立ち向かわねばならないのです。いつまでも逃げてばかりはいられません。人生の最終過程で面と向かわねばならない相手ならば、早い内に立ち向かってケリをつけた方が良いのです。
忘れたい程の辛い過去を、直視するだけでも勇気が要ります。その過去を清算するには、途方もないエネルギーを要することも確かなのです。でも、それは避けて通れない道です。潜在意識に自由を与え、無限の可能性に向かい、羽ばたいてもらうのに辛い過去は邪魔なのです。
何も辛い過去を抹消せよと言うのではありません。それらを逆手に取って、有効活用しようと言うのです。辛い過去体験ほど、示唆に富んだ、有効な知恵の宝庫はないからです。辛い過去を有効活用できるかどうかに、あなたの将来の飛躍的発展の鍵が隠されていると言っても過言ではありません。
過去に立ち向かうには、自分の言葉で過去を描写すれば良いのです。言葉に表わすことは、自分の体験をも客観視できることにつながります。自分の体験を第三者的視点から見て、客観的に捉えることが、辛い過去を有効利用する上での第一歩なのです。記憶の底に埋もれようとしている、辛い過去を無理矢理、白日の下に引っ張り出して、自己分析してみるのです。その作業は、潜在意識に係わりを持つ体験さえも、感情を排除して論理的に、原因と結果を見定める手順を踏むものです。
過去を書き連ねるには、自分史と言う形式を採るのが手軽です。自分史を書き、辛い過去を洗い出す場合、単に行為を記述するだけではなく、その時に感じた心情までも書き表わすと良いでしょう。より具体的に記述することにより、心の隅々にわだかまっていた思いを表出することができるからです。自分史は何も他人に見せる訳ではないので、真実を包み隠さない事が肝要です。自分の心にだけは、嘘をつくべきではないのです。
34へ続く

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潜在意識29

その29)
(閑話休題)
私たちは相対的に物事を考える傾向がある。つまり自分を基準として相手と自分の状況を比較するのである。絶対的比較とは自分の中だけで過去と現在を比較することである。人は絶対的比較をする限り大きく道を踏み外さないで済む。
ところが現状はどうか。相対的比較が益々まかり通る時代となっている。何故ならメディアが発達し、嫌がおうにも自分と他人の境遇を比較する機会が増えているからである。
聖書は大きく2つに分けられている。旧約と新約だ。イエス・キリストの教えを中心に書かれているのが新約だ。2つの違いは何だろうか。一言で言うと旧約は絶対的に書かれ、新約は相対的に書かれている点だ。
旧約でも後期には相対的に書かれている箇所が幾つかある。詩篇とヨブ記などだ。その2つとも自分を中心において他人を比較する記述が多い。
イエスは旧来の記述をすべて解釈しなおし、旧約の絶対的比較を相対的比較に直し個人に提供した変革者だ。彼は人間の本質を見抜き、人間は相対的比較の世界に生きていることを知っていた。
昨日、夢に以前潰れた会社の社長が出て来た。全くのワンマン社長で気を遣って接していた。親のすねをかじって経営していたが、遂に彼の会社は潰れてしまった。私は彼に酷い仕打ちを受けた時、恨んだこともあったが、最後は哀れに思った。
もう一人、上司で恨んだ人物がかつて夢に登場した。彼のパワハラは陰湿だった。年は10歳弱私より上だった。その彼は20年ほど前、病死したと聞いた。恨みは哀れみに変わった。
私も相対的比較の世界で生きている。かつては幅を利かせていた人物が次々に不幸な目に会って倒れた。一時的な栄華を味わった彼らは結局、自分の撒いた種で滅んでしまった。
30に続く

その30)
(潜在意識と過去)
私たちの潜在意識を束縛している第一の原因は過去です。過去に体験した、すべての思いが想念となって、心に渦巻いています。想念の中でも、負の感情である、怒り・恨み・悲しみ等を伴うものは、心の重荷となり、潜在意識の自由な発動を妨げているのです。どうすれば過去の呪縛から自由になれるのでしょうか。
過去を忘れ去ると言うのが、手っ取り早い手段でありましょう。私たちは意識して憶えることもできる代わりに、忘れることもできます。気晴らしとは、嫌な思い出を消し去ろうとする一つの手段です。嫌な思い出は楽しい出来事に掻き消されて、一瞬消失したように見えます。ところが、嫌な思い出は決して、消えることはないのです。意識出来なくなっただけで、無意識下に沈み込んでいるのです。
無意識下に沈み込んだ嫌な思い出は、ひょんなきっかけで、再び心に現われます。また夢の中で鬱積した思いとなって、現われたりもします。記憶の底に押し込んだつもりが、未だその勢力は衰えていないのです。
それらの嫌な思い出は、時間の経過と共に、印象は薄れて行く性質を持ちます。ところが、今一度、再会し対決せねばならない時が必ずやって来るのです。それは私たちが死に直面した時です。人間が死を間近に見据えた時、対決しなくてはならないのは過去の記憶なのです。楽しい思いも、辛い思いも、その時、一挙に湧き上がり、私たちはその清算に追われることになるのです。
31に続く

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潜在意識28

その28)
(イエスの奇跡と潜在能力)
 ここで潜在意識と祈りを多用し、ユダヤ教から新たな宗教を築き上げたイエスについて、少しの紙面を割こうと思います。西欧文明の基ともなったキリスト教の始祖は、一体どのようにして潜在能力を活用したのでしょう。信仰者の間では神の子として捉えられているイエスを、ここでは人間的側面から考察したいと思います。
祈りの人と言われたイエスの奇跡が、新約聖書と言う書物には数多く記載されています。それがため彼は神の子と崇められています。私はその考えには肯んじ得ません。奇跡を行なう力が備わっていたから、神だと結び付けるのは、いかにも短絡的過ぎます。短絡的過ぎるが故に、知的労働者からはキリスト教は白眼視されることになるのです。
イエスは奇跡を行なったがために、偉大であったのではありません。彼は潜在意識をフル稼働して、それを自分のためではなく、他人のために使ったから偉大なのです。そして最後には、古からの預言通りに、人類のためにその身を神に捧げたのです。
イエスの研ぎ澄まされた潜在意識が、すべての奇跡を可能にしたのです。彼は幾多の修練と祈りによって、自我と言う意識を滅却し、潜在意識を表面にまで導き出すことができました。そのため、彼の感性は研ぎ澄まされ、相手の心を見抜く事をも容易ならしめたのです。
私たちの判断を誤らせる最大の原因は、自我に付着する思い込みや偏見です。もし、それらの悪感情から自由になれたなら、私たちの潜在意識は自由を取り戻し、有力で効率的な働きをすることになるでしょう。イエスは私たちが到底、達しえない感性の高みにまで到達することができたのです。
だから人の心を読み取ることができたのです。相手が何を考えているかを読み取れる能力は怖いものです。相手が自分を好いていれば良いですが、嫌っているならば、それを知ったとて苦痛は増すばかりだからです。
イエスはきっと、公的生活の三年間、精神的苦痛ばかり味わっていたのでしょう。彼は同胞のユダヤ人たちから高く評価されてはいなかったからです。従って最後の晩餐で弟子のユダが裏切ることを知った後、早く処刑されて、ホッとしたと言う面もあり得るでしょう。
奇跡を行なうには、自我が透明に近くなり、影響力が減っている必要があるのです。自我が表にある限り、自分の力を過信する誤りを犯すからです。自分の力で奇跡をなしているという高ぶりが、心に湧き出た瞬間、奇跡は効力を失ってしまうのです。奇跡は単なる日常行為にまで転落してしまうのです。
29に続く

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潜在意識27

その27)
(閑話休題)
安閑として今、楽をしている者たちは後で苦労をすることになろう。エリートコースに乗った若者たち、老後を悠々自適で過ごしている年金生活者たち、人から搾取して良い思いをしている金融関係者たち、彼らは恐らく今良い思いをしている分、後で厳しい目にあることだろう。
人間には適応力が備わっている。適応力は楽な環境のもとでは育たない。体や精神に多少無理を強いられる環境のもとで初めて育つ。日々肉体労働にさらされている者。人の嫌がる仕事を強いられている者。社会的に不利な立場に立たされている者。彼らこそは厳しい環境に耐えている。
毎日肉体や精神を酷使し、疲れ果てて丸太のように眠れる者には心配など入り込む余地はない。暑い最中に日光に照らされて汗みどろで働く者にはただの水さえ命の糧だ。こういう者たちに適応力は与えられている。
眠るように死ぬのは最高の死に方だ。生きている限り毎日仕事で誰かの役に立ち、床に就く時は無我でいられれば。その晩死んでも思い残すことはあるまい。
28に続く

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潜在意識26

その26)
潜在意識を思いのままに動かすには、自分が何を目的として生きているのかを、明確にする必要があります。目的がはっきりしていなければ、意識は潜在意識に生きる動機さえ与えられないからです。人生での目的が決まれば、10年先、5年先の目標も決まります。そして、それを細分化すれば、今日一日の目標も決まって来るはずです。一日一日の積み重ねが、人生を形作るからです。
潜在意識に語りかける祈りは、明確でなくてはいけないと同時に、あまり利己的であってもいけないのです。自分一人が利益をこうむるような願いは、潜在意識としても却下せざるを得ません。人生は人とのバランスで保たれているからです。一人だけ良い思いをしたら、周りからひんしゅくを買うのは目に見えています。従って祈りで、自分ひとりの幸福だけを願っても効力は薄いのです。他人の利益を願う祈りの方が実現可能性は高いと言えましょう。何故なら利己的な祈りは心の思いを縛るからです。
利己的な祈りは欲と言う執着心を心に生成します。執着心が発生した時点で、私たちの心は意識でがんじがらめになってしまうのです。潜在意識が自由に羽ばたく余地が、奪われてしまうからです。潜在意識が最大の効力を発揮するのは、意識による妨害がない時に限られるからです。
27に続く

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潜在意識25

その25)
(潜在意識と祈り)
最近、潜在意識の効用が叫ばれています。潜在意識が持つ秘められたポテンシャルエネルギーに注目が集まっているのです。そのパワーをどの様に引き出したら良いのでしょうか。過去を洗い出して潜在意識を身近な存在とした私たちは、次に何をすれば良いのでしょうか。
日本人にとって、祈りは馴染みが薄いものです。神の存在を意識しない日本人にとって、祈ることは意味が薄いからです。ところが祈りとは、潜在意識を呼び覚ます、手っ取り早い手段の一つなのです。言葉を使って自分の思いを明確にし、一体、自分は何を欲しているかを自分自身に語りかけることだからです。
神と言う存在も、潜在意識下にある自分として、置き換えれば特に違和感はないでしょう。自分が自分の心に語りかけるのは、何ら不自然ではないからです。神は見えません。だから、その存在を証明する訳にはいきません。つまり神の存在を信じる者だけが、神を心の内に置いておけば良いのです。他方、神の存在を信ぜずとも、自分自身の心、すなわち潜在意識に語りかけることは可能なのです。
潜在意識自体、神と同じように見ることも触ることもできません。でも私たちは潜在意識の存在を確かに感じてはいるのです。意識せずとも、身体が自然に動いたり、感情が高ぶったりするからです。夢を見るのも潜在意識のなせる業です。私たちの行動や思考は、潜在意識に支配されているといっても過言ではないのです。
26に続く

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潜在意識24

その24)
(閑話休題)
人間には死の恐怖が常につきまとう。それは安楽な生き方をしている者ほど強い。毎日、汗水たらして全力を出し切っている者にとっては死は快適な誘いに過ぎない。
金持ちや生活に安定している者ほど将来を気にかける。さらに永遠に生きたいと儚い望みを抱く。しかしそうした望みが叶えられることはついぞ無いばかりか悩みの果てに死ぬ場合が多い。
悩みは精神だけでなく、肉体も弱める。精神と肉体は実に直結しているからだ。死にたくないと長命でいたいと望む者ほど短命になるのは皮肉な現象である。
25に続く

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潜在意識23

その23)
自分の心を偽った時点で、真実から離れ、つかみ所のない潜在意識が益々、遠ざかることになるからです。悪い部分を直す目的で潜在意識を洗い出しているのに、それを敢えて虚偽の闇に包み込んだら全く意味がないからです。
人に嘘をつくことは悪いですが、自分に嘘をつく事は最悪です。本来、自分を知り得るのは、自分しかいないにも拘らず、自分の心に嘘をつくことは、心が分裂することを意味するからです。心の分裂ほど、手の施しようのない事態はないからです。
ここで分裂と言っても、狭義の精神分裂、病的な精神分裂だけを指しているのではありません。ここで言う分裂とは広義の心的分裂で、誰もが経験する心的状態です。自分に対してさえ、本音を隠している時点で、私たちは心的分裂を起こしているのです。
文字を筆記し、記録できる能力は、人類に計り知れない英知を与えました。文字がない時代にあって、私たちの祖先は自分の過去を、話し言葉でしか振り返ることができなかったのです。夜の焚き火を囲んで、勇者は仲間に武勇伝を語り、老人は孫に体験談を語ったことでしょう。彼らの話しは恐らく、心的描写よりも行動描写が多かったことでしょう。人に伝えるには行動体験描写の方が伝え易いからです。
24へ続く

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潜在意識22

その22)
(潜在意識の制御)
目に見えず、心で意識もできない潜在意識に一体、どうやって働きかければ良いのでしょうか。簡単に答えが見出せる問題ではありません。もし潜在意識をある程度、自由にコントロールすることができれば、日常生活において不可能と見做されている行為も可能となることでしょう。
過去に様々な偉人・賢人が奇跡を起こした出来事が記録に残っています。恐らく彼らは誰もが見逃がす、この潜在意識をフル稼働させたのでしょう。無限の力を秘めた潜在意識を有効活用したことで、彼らは偉大な活力を放出しました。
さて潜在意識という普段、心の奥底に沈潜している対象を、意識上に引っ張り出す方法はあるのでしょうか。誰にでもできる最も簡便な方法としては、自らの心を探る、言葉を換えれば、自らの記憶を白日の下に晒すことです。私たちの心には体験・経験に基づく、様々な記憶が蓄積されています。日常生活において、過去の記憶は断片的にしか呼び覚まされないのです。その記憶を集中的に呼び覚ますのです。
一度、過去の記憶をすべて見える形で、洗い出してみましょう。見える形とは言っても、映像を呼び覚ましても、それはすぐに消えてしまいます。呼び覚ました映像やその時の心の動きを文章として、書き出す作業がどうしても必要となるのです。良く言われる自分史を書いてみることが、魂の奥底に分け入る最短の経路なのです。
自分史を書く時には、真実の自分と向き合い、真実の言葉で書き綴らねばなりません。人に見せようと身構えて、自分の過去を無闇に飾り立てたり、自分の欠点を包み隠したりしてはいけないのです。潜在意識に到達するために書く自分史には、嘘・偽りがあってはならないのです。何故でしょうか。
23に続く

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