主による訓練

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自我と超自我30

その30)
(自己を振り返る助け、聖霊)
こんな忙しい現代社会の中にあって、自己を見つめる内省の時を大事にしている民族がいます。それはユダヤ人です。彼らは土曜日の聖日には一切の雑事を離れ、自己の心に気持ちを集中させるのです。
ユダヤ人ほど厳格な聖日の守り方はしませんが、キリスト教国では日曜日を聖日に当て、週日に仕事でボロボロになった心と身体を休めるために使っています。
キリスト教では聖霊という言葉が良く使われます。聖霊とは超自我と関連が深いのです。キリスト教的に言えば、私たちの心は創造者である自然と直結し、心そのものに神が宿るとされています。超自我自体は見ることもできませんし、自由に制御することもできません。ただ生命の根源が宿る超自我が、私たちの感情をも行動をも大きく左右していることだけは確かなのです。
前にも述べましたが、イエス・キリストは私たちの超自我の重要性に気づきました。もち論イエスが初めてそれに気付いた訳ではありません。聖書を形作って来たユダヤ人がいち早く超自我の重要性には気付いていたのです。ただ彼らの失敗は律法という規則に縛られ過ぎた事でした。今でもユダヤ人は2,000年以上前に制定された律法を何よりも大事にしているのです。
簡単に言えば、イエスはユダヤ人が呪縛されていた律法の殻を打ち破りました。そして本来、神と直結している超自我の自由を取り戻したのです。では一体どの様にして超自我は自由を取り戻したのでしょうか。
イエスは聖霊という助け手を使い、私たちの超自我に自由を得させる段取りをしたのです。聖霊とは、私たちの心に本来、宿っている良心と言われる心に近い存在です。私は完全なる性善説論者ではありませんが、人間の心は環境次第では善い思いで満たされる機能を持つと信じています。どんな悪人と言われる人の心にも良心は存在すると思うのです。
私たちの良心を掻き消し、闇に葬り去る原因が、長い人生の中で、時に連続的に、時に断続的に襲って来たために、私たちは日常生活でともすれば、良心の存在自体を忘れます。そして良心を育む超自我の存在に気を止めることもないのです。良心や超自我に眼を向けようとすれば、どうしても自己を内省しなくてはなりません。
自己を振り返るのは時として辛いものです。それは自分の非を認めることでもあるからです。私たちは必ず過ちを犯しますが、誤まりを認めたがりません。自我が強過ぎるからです。自我は自分が間違いをしたことはあまり潔く認めず、相手に責任転嫁する傾向が強いのです。子供がよく「僕は悪くない、誰それちゃんが悪い」と言う傾向が強いのは自我の表われです。
守護神の様な自我から超自我を解放してあげるには、良心の目覚めが必要です。イエス・キリストが唱えた助け主、聖霊とは実に、私たちの超自我を破綻した自我から解き放つ、良心の親玉の様な存在と考えられます。
聖霊という良心の助けを借りて初めて、私たちは自らを省みることができます。自らの過ちを反省するのは敗北ではないのです。勝利なのです。内省し、反省し、自らの心を無に帰するまで落とし込むレベルから飛躍が始まるのです。

聖霊は超自我と同種の性質を持つが外界との結び付きがより強い。聖霊は潜在意識に働きかけて良心を呼び覚ます働きをする。それは自然界を制御している神と呼ばれる存在に源を持つ。
31に続く


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