自我と超自我41

その41)
(祈り・願いの対象)
古来、人類は自然の中に祈りの対象を求めて来ました。自然の脅威に対して無力な時代であれば、捧げ物をし、祈りをもって自然界に潜む偉大な存在の怒りを取り去るしかなかったのです。自然を含めた外界を自己との対立として捉えようとすれば、苦境時において私たちは孤立せざるを得ません。
順風満帆な人生の過程では、外界と調和を保っていたかに見えた自己も、逆境においては対立する存在と化した外界から孤立するのです。自己が一人孤立した心細さと言ったら、どんな言葉をもってしても形容できないほどです。もし頼みとしていた親も今はなく、兄弟姉妹も当てにはできず、さらに友人たちからさえ冷たい態度を取られたら、それこそなす術はないのです。
そうです、人間がその真価を問われるのは逆境においてなのです。今まで経験したこともない困難に出会った時、私たちは茫然とし、「何故自分にこんな困難が襲って来たんだ」と自問します。逆境とは生命の危機・病気・交通事故・自然災害等です。数え上げれば枚挙にいとまがありません。
自然災害は別として、ほとんどすべての困難は個人だけを直撃するものです。そして直撃された個人は普通、自分一人の力でそれらの困難に対処し、問題を解決しなくてはいけません。もち論、これらの困難の内には自然から与えられるものだけでなく、他人からもたらされる困難も含まれます。例えばいじめとか嫌がらせ等です。
困難に直面し、苦境に立たされた時、もし周りに誰も助けてくれる者が見当たらず、しかも悩みを訴える相手さえいなければ、その者の心はどんな暗黒に包まれるかは想像に難くありません。実に私たちが苦境の中において、絶望に陥るのはこうした時なのです。孤立した自我は周りの世界と対立します。心を閉ざした自我は自然からの恵みや両親・知人からの愛を通して、わが身に生命の光が降り注がれている事実に気づくことはないのです。
外界を自己との対立として捉える見方は、昔に比べ現代の方が際立っています。科学技術が発達した現代では、外界は自己との対立要素として捉えられています。突き詰めれば、現代では自然とは人間の征服対象として捉えられ、昔と比べてさらに対立の意味合いは強まっているのです。征服する対象となった自然の中に、崇拝する対象としての神を見出すことは心情的に不可能だからです。従って宗教が育つ素地はどこにも見出せません。
古来、日本において人間は自然と共存する道を探って来ました。人間は自然と調和する中で、生活の安定を保って来たのです。他方、西洋思想は自然と対立する姿勢を本旨とする科学技術に基を置いています。日本は開国後、西洋思想の内でも特に取り込みやすい科学技術を重点的に導入して来ました。その結果、日本人の心情は自然との調和から対立へと一変してしまったのです。
日本古来にも卑弥呼が活躍し、神道が隆盛を極め、天皇制の基礎が形作られた時代はあったのです。自然との調和を第一と考える日本人が作り出した文化と言えましょう。当時、個人は自然を司る絶対者と直接、交渉できないという思想が根底にあったのです。
人間と絶対者を取り持つ役目を担う神官の働きは古来、重要でした。今でも交通安全祈願や地鎮祭等、特定な儀式の際には、神官は重要な役目を担っています。未だに日本人の心の奥底には宇宙を司る、見えない絶対者の存在が見え隠れしているのでしょうか。

人間は古来具体的な崇拝の対象として偶像を作って拝んでいた。やがて言語を通して知恵が発達すると偶像ではつじつまが合わなくなった。その結果、創造主は目には見えない無限の存在として捉えられるようになった。
42に続く

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

先が見えないおかしい事を認める ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。