先が見えない

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自我と超自我40


その40)
(感謝の条件)
親は我が子に対し何の見返りも期待せずに、必要な物を分け与えます。しかもそこには恩ぎせがましい言葉はないのです。親がその身を削って分け与えた恵みに、その時点では子供は全く気づかないのです。ですが後々、子供はその恵みに必ずや気付く時が来るのです。
それには重大な一つの条件があります。親は子供に物を分け与えたり、良い教育環境を備える際に、自分のエゴを介入させてはいけないという点です。親が自分のエゴで子供に恵みを分け与えたとしても、子供はそれを即座に見抜くのです。親のエゴから派生した子供に対する恵みは、後から決して子供に感謝されることはありません。
子供は親からの恵みを通して初めて、社会からの恵み、さらには自然からの恵みに気付かされます。その意味では、私たちの感謝の念は親の育て方次第で決まると言っても過言ではないのです。
私たちが感謝の念を起こすもう一つの機会は、私たちが苦境に立たされた時です。それは経済的苦境でも生命的苦境でも構いません。私たちの身体と精神が極限状態にまで追い込まれた時、自我の勢力は後退し、超自我が顕在化します。不満の元凶である自我が一時的にせよ取り払われたことで、超自我は従順に自然の恵みを受け入れ、最低限の生命活動にも満足するのです。
自我は生まれつき感謝する気持ちを持ちませんが、極限状態にまで追い詰められた自我は生まれて初めて、生きるために不可欠の要素は極端に限定された物質に限られることを知るのです。その物質とは空気・水と最低限の食料です。さらに生命活動を持続させるには光と熱を供給する太陽の存在が不可欠であることも知るのです。
超自我は元々、これら生命活動に不可欠な物質の重要性は認めていましたが、自我は全くその存在に注意を払っていませんでした。何故なら注意を払わずとも無尽蔵に与えられ続けて来たからです。ところが今、極限状況に至った自我は超自我と同じレベルに立ち返って、生命維持に不可欠である自然からの恵みを思い知ることになるのです。
勿論、苦境の中にあって自暴自棄になる自我もあるのです。むしろ苦境に立たされると社会や運命を呪い、自分の存在さえ否定する自我が近年増え続けています。そうした自我は自分で自分の首を絞めていることに気がついていないのです。
他方、ある程度柔軟性を保持している心が健在でありさえすれば、不満だらけであった自我も極限段階に至って初めて、反省せざるを得なくなります。呼吸することや心臓を動かすことさえ、ままならない自我は無力感に襲われます。さらに社会生活をしていく上で、生まれた時から親だけでなく、近隣社会の人々すべてから並々ならぬ恵みを受けて来たことを思い知るのです。
こうして青年期に超自我から極端に遊離し、不平・不満の虜となっていた自我も、自然に密着して静かな生を続ける超自我の立場にまで、その身を落とすことができるのです。ここでやっと自我はすべての恵みに対する感謝の念を知るに至ります。

感謝の念がない自我は所詮高慢になる。従って目上の者に対する敬意などは到底抱くことはない。
41につづく

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傲慢

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自我と超自我39

その39)
(感謝)
私たち日本人は戦後、感謝しつつ苦しい生活を続けて来ました。ところが現代で感謝の念を抱く日本人は極めて少ないようです。特に若者に感謝の気持ちが薄いのは悲しむべきことです。
私は先日、ある会合で若者グループと席を共にしました。昼食のテーブルを囲み、招待者であった彼らに主催者側である私たちは給仕をしたのです。彼らは音楽の演奏をするために招かれていました。私は人手が足りなさそうなので味噌汁を配ることにしました。
若者たちのテーブルに味噌汁茶碗を配る際に、私は「どうぞ」と小声で言いながら、配って行ったのです。驚いたことには5、6名いた若者の誰一人として「有難うございます」とか「済みません」と言う者はなく、ただお互い同士の話に打ち興じていました。私は一瞬、怒りが込み上げて来ると同時に、日本の先行きに暗い影を見た思いがしました。
彼らは招待を受けた側であり、無料で昼食を食べられる特権に与っていました。音楽の演奏をするということで誇る気持ちもあったのかも知れません。恐らく自分たちは接待されて当然だとの思いで満たされていたことでしょう。
私たちがあらゆることに対して感謝の念を持ち得なくなったのは、自我が強力な自尊心を持ち始めたことが原因なのです。もう一つ忘れてならないのは、人から与えられることに慣れ切ってしまった硬直した自我にも原因があるのです。
自然の中で生活する動物には感謝の念はありません。同時に彼らには不満の気持ちもないのです。自然から受ける恵み、すなわち光・熱・空気・水・食物をありのまま受け取り満足するのです。自然界のエネルギーサイクルの中で、全く効率的に動物も植物も、その生を営んでいます。食物が多い時は残し、少ない時は我慢するという自然の摂理に従順に従っています。
一方、人間において自意識の未だ目覚めない赤子や幼児が、欲求に任せて泣きわめくのは、親の手を借りずに自分の力だけでは食物の調達さえできず、排泄物の始末もままならないからです。彼らには自我が育っていないので、動物同様、感謝も不満も感じてはいないのでしょう。単に親から用意万端の世話を受け、従順に親に従い生きているだけです。ただ成長につれ、人間だけが自然からの恵みに対して、感謝したり不満を並べたりするようになるのです。
人間の子供は言葉が話せるようになり、オムツが取れて、自我が芽生え始めると共に、不満が口をついて出て来ます。彼らは不快感や不足感を信号として、親に伝えなくては生きて行けないからです。そして欲求を充分に満たされると満足して、不満は影を潜めます。この時に自然と感謝の念が湧き上がることは稀なのです。意識せずとも不満は口をついて出て来ますが、感謝の言葉は訓練を受けた心が意識的に発するより他ないのです。
ここで言葉を憶えたての我が子に対する親の接し方が、その後の子供が付き合う自我の方向性を決めることになります。親が子供の要求をすべて満たすのみでなく、先取りしてまで彼らの要求に応えようとすれば、一体どんな結果がもたらされるのでしょう。子供の自我は要求が満たされるのが当たり前と感じるようになります。逆に満たされないと不満がすぐに湧き出ます。
物が豊富になった現代において、中流家庭以上であれば子供たちの欲求、特に食欲は何の不足もなく満たされています。一人っ子の家庭が増える中にあっては、それ以外の物質的な欲求もほとんどすべて満たされているのが現状です。親は我が子に何でも物を買い与えることが愛情だと勘違いしている節も見受けられます。
欲求をすべて満たされることに慣れた自我に占拠された子供の心は、次第に硬直して行きます。硬直した心からは感謝の念が湧き出ないばかりか、逆に不満が噴出するのです。何故なら欲求が膨らみ続けた結果としての欲望には際限がないからです。欲望の塊と化した心は満足することを知りません。
感謝は豊かさの中からは育たないのです。感謝とは苦境を通してのみ、私たちの心に湧き上がる感情なのです。私の家はそれほど裕福ではありませんでしたが、親の精勤のお陰で何不自由なく育てられました。従って私自身、小中学校時代でさえ親に対して不満はあっても感謝する機会は乏しかったのです。
親に対する感謝の念が心に湧くようになったのは、自分で稼げるようになってからのことです。社会で働き、金を稼ぐことの困難さに遭遇して初めて、親の苦労が身に沁みたのです。そして過去を思い返すことによって当時、親が我が子のためにいかに寸暇を惜しんで働き、自分のためにではなく我が子に金を費やしたかを実感することができるようになったのです。
子供は親の言葉によって、感謝の念を学ぶ訳ではありません。親の無言の行動によって感謝せざるを得ない気持ちになるものです。私は、今は亡き両親に対し感謝せずにはいられません。子を持つ親となって益々、親の有難さを思い知らされているのです。「孝行したい時に親はなし」「子を持って初めて知る親の愛」等、昔から言い古された言葉は真実の響きを帯びて来るのです。

現代は感謝の念が薄い時代である。感謝の気持ちがなければ日々の満足は得られない。感謝の対象は自然の創造者である。その権威に対して頭を垂れるのが先ず第一になすべき要件だ。
40に続く

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自我と超自我38

その38)
(犠牲的死)
イエスはその教えの中で度々「人のために命を捨てること、これより大きな愛はない」と言って愛の原理を示しました。彼は十字架の死に甘んじることによって「生きたい」という自我を捨て去り、「教えに実体をもたらしたい」という超自我の声を優先しました。
イエスの超自我は公的人生を歩み始めてからは、自我からの圧力を撥ね退けて来ました。彼はその公的人生を始めるに当たって、先ず荒野で悪魔の試みを受けました。悪魔の囁きは横暴な自我を襲う誘惑の声を象徴的に表わしたものです。彼は三つの誘惑に打ち勝ちました。
一つ目は食欲に関する誘惑です。一般的には肉にまつわる欲望からの誘惑と言えます。二つ目は自分の力を過信する誘惑です。そして三つ目は名誉欲についての誘惑です。悪魔は「神に従わなければすべての欲望を満たしてやる」と豪語したのです。イエスは悪の声を退けました。その時点で欲望が渦巻く自我とは縁を切ったのです。そして神として象徴される自然の摂理に従い、その根源において超自我が直接、自然の恵みから力を受ける道を選んだのです。
イエスの死は聖書の中で古くから預言されていたものでした。預言を成就するため、そして神から人類に約束された知恵の言葉に生命を与えるためにイエスは十字架上で死なねばならなかったのです。彼の死によって、今の私たちは聖書から生きた言葉を得ることができるようになったのです。その意味で犠牲的な死だったのです。
さらに自然の根源と直結する超自我から幼児期を境として、次第に離れ去り増長した自我に占拠された私たちの心を再び、超自我から溢れ出る自然の恵みに立ち帰らせるのには、イエスの死が不可欠だったのです。何故なら彼が死を賭しても超自我にすがり、死の直前でさえも彼の敵を許すまで自我を滅却した事実が、私たちに唯一、超自我へと近づく道を指し示したのです。イエスの手本によってのみ、私たちは不本意にも一度、手放した超自我に近づき、自我の独走を抑えることが可能となったのです。
こうしてイエスは死を超えて、私たちが生命の源に近づく道への懸け橋となりました。その死は正しく犠牲的な死であったのです。

イエスは当時のユダヤ人を念頭において犠牲的な死を決断した。また聖書の預言書に書かれていた救世主の実現を果たすために死を選んだ。現代人にとってイエスの死が効果的かどうかは受け取る側の心情に拠る所が大きい。
39に続く

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料理

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自我と超自我37

その37)
(イエスの偉業)
イエス・キリストはキリスト教の祖ですが、超自我を際立たせ、自我を最小限にまで抑えたという点でも偉大です。彼がその偉業を成し遂げられたのは、ユダヤ民族が聖書の中で預言として記録してきた歴史の故です。イエスの使命は語り継がれた預言を成就するという一点に絞られていたのです。
預言を成就するためには自我の存在は邪魔だったのです。超自我と預言を同化させるのに、自我は闇に葬り去るしかなかったのです。最終的に十字架にかかり、聖書の預言を成就させるという行為も、自我との葛藤の上でなされました。そして結果的に「生きたい」という自我の声を抹殺しても、自己犠牲的な死を遂げたことで超自我を崇高な目的のために供したのです。
イエスの犠牲的死がなければ、私たちの自我が目覚めることはありませんでした。超自我に敵対して、生命活動の本源をも阻む自我を打ち砕くのは容易ではないのです。心の内で超自我は、自我により全包囲されているからです。よほどのきっかけでもない限り、自我の独裁は生涯続くのです。
ユダヤ人は極端に自我が強い民族です。さらに唯一神ヤーウェを信奉する宗教心の厚い民族でした。かつてモーセが奴隷であった彼らをエジプトから解放し、導き出した時も一定期間、ヤーウェに感謝を捧げました。ところが砂漠での生活が長引くに連れ、その信仰心を失い、生活に対する不満ばかりが噴出したのです。
「十戒」というモーセがヤーウェから授かった律法にも彼らは従わず、そのため40年も砂漠での苦難の生活を強いられました。彼らは神との契約を重んじる民族でした。律法さえ守れば生活は保障されると信じていたのです。そして律法を守り充実した日々を送った時期もあったのです。
それでもやがて律法を無視し、神に逆らう安逸な生活に走る者たちは後を絶ちませんでした。ユダヤ人の歴史はヤーウェに従ったり、逆らったりを繰り返す歴史でした。彼らが窮迫した状況では、神に従って助けを求めたにも拘らず、生活が安定すれば神を離れるという、神を自我の欲求を満たす道具として使う傾向が強かったのです。
ユダヤ人の度重なる離反に対しヤーウェの怒りは爆発し、ついに彼らはバビロンに捕えられユダヤ王国は消滅したのです。その後、祖国を追われたユダヤ人民は離散して、国を打ち立てようと努力を続けていますが、その試みは未だ完全に成就してはいません。
こうしたユダヤ人の頑なともいえる自我を打ち破ろうとの決意を込めて、イエスは二千年前に立ち上がったのです。ところが結局、彼らの自我をイエスは打ち砕けませんでした。反対に彼らの手によってイエスは十字架に掛けられたのです。
ユダヤ人民は未だにイエスに敵対心を持っています。それは彼らが熱心に遵守する律法に縛られている態度をイエスに批判されたからです。律法は「十戒」に端を発するものですが、細かい取り決めがなされています。良く知るところでは「豚肉を食べてはいけない」といった食べ物に関する取り決めがあります。
イエスは律法に自由な心を捉われているユダヤ人の杓子定規な考えを糾弾したのです。文書化された律法に自我が翻弄されては超自我の出る幕はないのです。当初、超自我を自我の独断から守るために創られた律法が時代を経た後には形骸化し、用をなしていなかった、当時の現状をイエスは指摘したのです。イエスが追い求めていたのは心の自由だったからです。
イエスはユダヤ人に救世主と待望されていたにも拘らず、彼の教えは彼らの頑なさを益々助長する結果となり、排斥されました。そこでイエスは方向転換し、ユダヤ人以外の人々、当時の表現では異邦人にその教えを広めようとしたのです。異邦人はユダヤ人よりも心の柔軟性はありました。特に権力がなく虐げられた人民や病者や精神的に病む心の弱い人々にイエスの教えは瞬く間に受け入れられました。社会的に底辺の人々は心に奢り高ぶりがない分、自我の勢力は抑えられているからです。
イエスは言葉で人を導くだけではなく、その行いによって規範を示しました。そして3年間の短い公的生活の最後には十字架刑に処せられ、犠牲的な死を遂げたのです。彼の死によって、その教えは命を得ました。何故ならイエスの死は超自我が自我に勝利した結果を意味したのです。

イエスが偉業を成し遂げられたのは歴史的な背景があったからだ。かつてのイスラエルはかつての栄光からは遠ざかり悲惨な状態であった。その様な状況で強大な指導力を持つリーダーを人民が求めるのは当然の帰結であった。ところが人民が求めていたリーダー像とイエスとは余りにもかけ離れていた。お互いの価値観が真逆だったからである。
38に続く

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自我と超自我30

その30)
(自己を振り返る助け、聖霊)
こんな忙しい現代社会の中にあって、自己を見つめる内省の時を大事にしている民族がいます。それはユダヤ人です。彼らは土曜日の聖日には一切の雑事を離れ、自己の心に気持ちを集中させるのです。
ユダヤ人ほど厳格な聖日の守り方はしませんが、キリスト教国では日曜日を聖日に当て、週日に仕事でボロボロになった心と身体を休めるために使っています。
キリスト教では聖霊という言葉が良く使われます。聖霊とは超自我と関連が深いのです。キリスト教的に言えば、私たちの心は創造者である自然と直結し、心そのものに神が宿るとされています。超自我自体は見ることもできませんし、自由に制御することもできません。ただ生命の根源が宿る超自我が、私たちの感情をも行動をも大きく左右していることだけは確かなのです。
前にも述べましたが、イエス・キリストは私たちの超自我の重要性に気づきました。もち論イエスが初めてそれに気付いた訳ではありません。聖書を形作って来たユダヤ人がいち早く超自我の重要性には気付いていたのです。ただ彼らの失敗は律法という規則に縛られ過ぎた事でした。今でもユダヤ人は2,000年以上前に制定された律法を何よりも大事にしているのです。
簡単に言えば、イエスはユダヤ人が呪縛されていた律法の殻を打ち破りました。そして本来、神と直結している超自我の自由を取り戻したのです。では一体どの様にして超自我は自由を取り戻したのでしょうか。
イエスは聖霊という助け手を使い、私たちの超自我に自由を得させる段取りをしたのです。聖霊とは、私たちの心に本来、宿っている良心と言われる心に近い存在です。私は完全なる性善説論者ではありませんが、人間の心は環境次第では善い思いで満たされる機能を持つと信じています。どんな悪人と言われる人の心にも良心は存在すると思うのです。
私たちの良心を掻き消し、闇に葬り去る原因が、長い人生の中で、時に連続的に、時に断続的に襲って来たために、私たちは日常生活でともすれば、良心の存在自体を忘れます。そして良心を育む超自我の存在に気を止めることもないのです。良心や超自我に眼を向けようとすれば、どうしても自己を内省しなくてはなりません。
自己を振り返るのは時として辛いものです。それは自分の非を認めることでもあるからです。私たちは必ず過ちを犯しますが、誤まりを認めたがりません。自我が強過ぎるからです。自我は自分が間違いをしたことはあまり潔く認めず、相手に責任転嫁する傾向が強いのです。子供がよく「僕は悪くない、誰それちゃんが悪い」と言う傾向が強いのは自我の表われです。
守護神の様な自我から超自我を解放してあげるには、良心の目覚めが必要です。イエス・キリストが唱えた助け主、聖霊とは実に、私たちの超自我を破綻した自我から解き放つ、良心の親玉の様な存在と考えられます。
聖霊という良心の助けを借りて初めて、私たちは自らを省みることができます。自らの過ちを反省するのは敗北ではないのです。勝利なのです。内省し、反省し、自らの心を無に帰するまで落とし込むレベルから飛躍が始まるのです。

聖霊は超自我と同種の性質を持つが外界との結び付きがより強い。聖霊は潜在意識に働きかけて良心を呼び覚ます働きをする。それは自然界を制御している神と呼ばれる存在に源を持つ。
31に続く


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先行き不安

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