自我と超自我43

その43)
(超自我の復活)
許しを求め願う、祈りの特権を祭司の手から個人の手に移した点で、イエスは革命的でありました。神に祈る特権を独占的に与えられていた、当時の祭司や宗教関係者は当然、彼に反発しました。その結果、以前から預言されていた通り、イエスは正に彼らの手によって十字架刑に処されることになったのです。
イエスは個人が、絶対者である神に近付く道を私たちに示しました。自然界に君臨すると考えられていた神が、実は私たちの超自我の中に内在することを実証したのです。私たちはもはや自然界の絶対者に大声で呼び掛けるのではありません。静かに私たちの超自我に向かって祈りをもって語りかければ、絶対者に気持ちが通ずることを知ったのです。
心を静めてじっと耳を澄ましてみて下さい。あなたの心臓の鼓動と血液が脈を打って、全身を淀みなく流れる音が聞こえて来る筈です。あなたの超自我は昼夜の別なく、心臓の動きや他の諸々の臓器の動きを見守り続けています。だからあなたは安心して、超自我にすべてを委ねることができているのです。
自然の生態系と密接に結び付いている、あなたの超自我はあなたが最も効率的にその生を営むことを期待しているのです。眼に見える物しか信じない自我は、不合理な神の存在を否定するかも知れません。何故なら自我は計算づくで納得できる事柄しか信じないからです。自我は自ら掌握した知識の範囲内で判断を下します。自我とは限定された範囲で考え判断する宿命を負わされているのです。
イエスは神と離反した自我に死の宣告を下し、神が宿る超自我に再び命を得させるために、その身を神に捧げるしかなかったのです。その身を捧げて絶対者と人間の超自我との仲を取り持ち、私たちの超自我の復権を果たしました。
自我の独走によって一旦神から離れ去った人間の心は、自力で神に近づくことはできません。一つには、神に敵対する自我の勢力が強い内は、余程の転機がない限り、神に回帰することはできないからです。二つ目は、神から離れた自我を神自身が良く思っている筈がないからです。神にとっては人間が神から離反すること自体が悪と見做されています。
つまり自我が高慢にも自然から与えられた身も心も自分の所有物と考えるだけでなく、生命自体を与えてくれた自然にさえ敬意を表さない態度に対し神は怒るのです。何故なら自然界の中で調和の内に生命活動を営めない人間だけが自然の摂理に反する張本人となっているからです。
「天に向かってつばをする」という表現があります。天に向かってつばをしても、結局それは自分の身に降りかかるという意味です。私たちは大自然に敵対したとしても全く無意味なのです。それは自分を育んでくれた本体を否定することだからです。
自我が神と敵対関係にある内は、超自我との関係もギクシャクしたものとなります。神が宿るとされる超自我と、神に敵対する自我とは全く進む方向が逆だからです。超自我を復活させ、活性化するには、どうしても自我が先ず自然の根源に宿る絶対者の前に頭を垂れるしかないのです。
 絶対者は忍耐強くあなたの自我が自然の摂理に目覚め、あなたの超自我と歩調を合わせて、あなたに天与された使命を果たすことを切望しているのです。

自我に翻弄され一時勢力を失ったかに見える超自我を認識した自我が自重し超自我が勢力を復活すれば恐れるものはない。
第1部完
44に続く
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