自我と超自我42

その42)
(仲保者の出現)
自然と調和の中に生きる日本人にとっても超越者に祈り、願う際には専門の神官を介す必要がありました。まして自然との対立関係にあった二千年前の過酷な中近東地方では、人の思いを超越者に伝える祭司の役割りは重要だったのです。そしてその権威は絶対的でした。
自然は人間に恵みをもたらしてくれますが、人間が悪をなした時は何らかの報復が下されると考えられていました。日本では「罰が当たる」という表現が使われますが、悪事と罰を結び付ける風潮は世界中のどの地域でも見られたのです。
祭司は貢ぎ物をもって、神の怒りを解く役目を担っていました。悪事をなした者は、貢ぎ物を祭司経由で神に捧げねばなりませんでした。個人と絶対者との間には途方もない距離が存在したのです。祭司とはその距離を埋める存在であったのです。
ところがやがて人間は自然についての知識を深めて行きました。その結果、自然現象や自然災害ですら、単に神の怒りという捉え方ができなくなって来たのです。悪事と自然現象を結び付ける不合理さに、人間が気付き始めてしまったのです。
現象としての自然についての知識が増すにつれ、人間の興味は心理面に向かったのです。そして悪事を働いた後の心の動きに興味が移ることになりました。悪事の結果、自然現象に異変が起こり、神の怒りを鎮めるために貢ぎ物を捧げるという以前まで有効であった図式が成り立たなくなり、同時に祭司の権威も次第に低下して行きました。
祭司は個人の心の問題を解決する上では、従来の方法、祭壇に生け贄を捧げ、神に祈るという方法が無力になったことを思い知ったのです。個人的な悪、すなわち罪によって引き起こされた弊害は当人の身体変化に及びます。さらに関係する人々との間に軋轢を生み、犯罪に発展するケースも増えるのです。こうして個人の悪は自然現象との関係より、周りの人々との関係において追及されるようになりました。
心の内面の問題、そして人間関係の問題に焦点が移って来ると、自然の中で捉えられていた超越者の存在が希薄となります。もし超越者がいるとすれば、個人の内面深くで私たちに生きる光と力を与えてくれる内在的存在としての超越者が次第に脚光を浴びるようになって来ます。その段階において貢ぎ物を介して、人と神の仲を取り持つ従来の祭司は用をなさなくなったのです。
二千年前のユダヤ社会では、熱烈に人間の内面にまで立ち入って人と超越者との間を取り持つ仲保者の出現が待たれていました。その期待に応えて出現した人物がイエス・キリストであったのです。人の内面をも司る超越者としての神と人間の仲を取り持つ仲保者として、彼は世に現われたのです。

神の仲保者としての役割を担うには神と直結している超自我が常に覚醒している必要があった。
43に続く

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