弱い者

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自我と超自我62

その62)
(将来への不安)
心の平安を保てさえすれば、眼の前に立ち塞がるどんな困難さえも恐るるに足りないのです。私たちには現実的な困難に対する恐れや不安と共に、将来的な死への不安が襲って来ます。私は子供の頃、自分の死より親の死、特に母親の死を極端に恐れていた時期がありました。
ある日、昼寝をしている時に夢を見ました。夢の中に小さな神社が出て来ました。その神社の前面扉は大きく開かれ、中の祭壇には何本、何十本もの燈明が点っていました。やがて私の目の前で大きく開いていた神社の扉は静かに閉ざされたのです。私にはその燈明が命の火に思えたのです。そして扉が閉ざされたのは死を連想させたのです。
昼寝から覚めた私は全身汗びっしょりでした。辺りは薄暗く、部屋の電灯もついていませんでした。私はすぐに飛び起き、先ず母の姿を探しました。母の安否が気掛かりだったのです。辺りに母の姿は見当たらず、私は心臓をドキドキさせながら家を出たり入ったりしました。その内、母は何事もなかったかのように買い物から帰って来て、私はやっと胸をなで下ろしました。
子供にとって親の死は恐怖なのです。青年になれば親の死より自分の死が恐怖となります。ところが社会に出て働き出すと、私たちの日常から死の恐怖は影を潜めるのです。死の影が再び人生に陰を落とすのは、私たちが仕事を離れ、人生の黄昏に差し掛かってからです。

将来が不安なのは死の恐怖と金銭の不足が原因である。死の恐怖は現在に全力を注ぐことで取り払われる。金銭の不足は財産を残さない方針から解決策が見つかる。
63に続く

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