弱者よりの攻撃

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自我と超自我46

その46)
(サタン)
この世のエネルギー源である太陽、そしてその他の恒星はエネルギーを他に与える側の存在です。それ以外の存在はエネルギーを受けるだけの存在なのです。地上の生命体は太陽からのエネルギーを受けて生命活動を営んでいます。すべての動植物は太陽から直接受けたエネルギー、或いはそのエネルギーが創り出した副産物を体内に取り込み、生命を維持しているのです。
自然のエネルギー循環体系により、生物であれ無生物であれ、取り込んだエネルギーを他のエネルギーに変えながら自然界のサイクルを保っています。その中で特異な生き物がいます。それが人間です。唯一、人間のみが自然界のサイクルを乱す張本人なのです。
いかに凶暴な猛獣といえども、必要以上の殺傷はしません。彼らが時として凶暴なのは、自分の生命維持のために最低限必要な食糧を確保するために致し方ないのです。一方、人間は違います。殺す必要のない相手を殺傷することも有り得るのです。
一体、動植物と人間との違いは何なのでしょうか。どちらも太陽からエネルギーを受けていることに変わりはありません。大きく違う点は、人間だけが奪う性質を兼ね備えている点です。自然界に生きる動植物が、他の動植物の所有物を奪う機会は限定されています。単に自分の生命維持に不可欠の事態に直面して初めて、他から奪うのです。しかも大方、食欲が満たされれば、奪う行為は中断されるのです。
ところが自然界に必要以上に奪い続ける生物が出現しました。それが人間なのです。人間は神が創った最高傑作だと言われることがあります。人間は確かに高度な機能を備えた最高傑作であるかも知れませんが、周りの環境から必要以上に奪い続ける貪欲な一面を持っていることに、心を留めておく必要があるのです。
何を奪うにしろ度を越せば、その行為は悪に直結します。生命活動維持に適合する範囲内での奪う行為は悪にはなりません。限度を超えた段階での奪う行為が、悪をもたらすのです。
ここで象徴的存在である神とサタンの対比をしてみたいと思います。神が与える側の源と考えれば、サタンは奪う側の元凶と考えられます。サタンは人間誕生と同時に発生した、神と対比される悪の象徴なのです。人間を創造したのは神であるとの解釈に立てば、人間と同時に発生したサタンも神の手により発生したと思われ勝ちですが、そうすると神の正義は全くその根拠を失うことになります。そこでサタンも人間の悪も、神の責任とは切り離して捉える見方を採る宗教が多いのです。
私は神が正義であるとは信じたいのですが、全宇宙に遍く神は、悪に染まり易い形での人間を造ったことにも一端の責任はあると考えます。ただ、この事は被造物が創造主を非難することにつながるので、本来、言ってはいけないことなのでしょう。私たちに残されている使命は、人間が悪に染まり易い存在だと分かった以上、悪に染まらずに自然と共存する道を探る以外にはないのでしょう。

サタンの存在は聖書に記されているのみである。もしサタンがいるとしてもそれは神が造り出したものに過ぎない。従ってサタンも神の勢力下にあると言うことには間違いはない。

(サタンからの防御)
私たちの自我は、悪の象徴であるサタンの攻撃を受け易いものです。サタンは私たちの心の隙をついて、入り込む巧みな性質を有するものです。
私たちが超自我に根差した夢やヴィジョンを頭に思い描いても、そのすべてが実現に至ることはありません。夢の実現されない時が、サタンにとってはまたとない好機なのです。私たちが超自我の能力に疑念をはさみ、そこから離反する危機が潜んでいるからです。
私は最近、ある文学賞に落ちました。この三ヶ月間、私の超自我は心の中で今回は入選するという信号を送り続けていました。それにも拘らず、落選を知った私は失望に包まれたのです。ここで心の選択を迫られました。
落選した原因をどこに求めるかです。一つ目の選択は、その原因を自分の超自我に求めるものです。もう一つの選択は、落選の原因を選考委員の側に求めるものです。私は後者を選びました。落選理由を選考委員側の選考基準に帰したのです。
私は自分の超自我に信頼を置いています。超自我の手を借りて書き上げた作品に文句を言う訳にはいきません。超自我を敵に回したら、私は立つ瀬がないのです。一方、選考委員の判断は頼むに足りません。第一、どんな人物が選考委員だか分からないのです。彼らの主観によって優秀作品が選ばれる訳であり、その作品が絶対的な優秀さを保持しているかどうかは全くもって不明なのです。選考委員は超自我より自我の判断を優先していたかも知れません。何故なら超自我同士は生命の根源において直結していますから、お互い呼応し合っています。超自我が主体となって書き記した文章に対し、他の超自我は普通、共鳴するものだからです。
私は選考委員にその非を唱えるつもりはありません。人生観での立脚点が違えば同じ作品でも、天と地ほどにもその評価が分かれるからです。大多数に受け入れられる本はあっても、万人に受け入れられる本はないということです。
私にはサタンに入り込まれる可能性がありました。私がもし超自我に敵対しようものなら、彼はすぐに入り込む用意をしていた筈です。サタンは超自我が個人から切り離されるのを喜ぶからです。私が落選した原因を自分の超自我に帰したとしましょう。超自我の努力が足りなかったから入賞できる作品が書けなかったとか、超自我が入選すると啓示していたくせに、入選できなかったのはお前のせいだなどと言って、自我が超自我と喧嘩でも始めようものなら心は分裂します。それこそサタンの思うつぼです。
奪い合いを奨励するサタンとしては、自然と周りの社会とに協調して生きる超自我の生き方は苦手なのです。特に奪い合う事よりも与え合う事を奨励しながら犠牲的死を遂げたイエス・キリストの生き方には何の手向かいもできなかったのです。
サタンから身を守るには、奪い合う事より与え合う事に心を配った方が良さそうです。

サタンとは心の奥底にくすぶる悪の誘惑だ。善の誘惑が良心だとすれば良心の真逆がサタンだと考えれば良い。
47に続く

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