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自我と超自我56

その56)
(怒りと悲しみ)
期待が裏切られるなどして不快な思いをすれば、自我は怒りを発します。それに対し、超自我は不快な出来事に対し悲しみを表わすのです。この違いは何でしょうか。
プライドが高い自我としては、社会が自分を正当に評価しない理由を自己にではなく、社会に帰します。従って社会の中で正当な評価をしない特定の相手に対し、怒りが向けられるわけです。自我は自分に非は認めませんから、相手を一方的に糾弾します。それが怒りの正体です。
他方、超自我は不都合が起こった時、相手だけに責任を押しつけはしません。自分と相手の立場を相対的に判断して、不都合の原因を追求するのです。例えば自分の作品が世に正当に評価されないとしても、評価しない相手を恨んだりはしません。評価されない理由は自分の側にもあると内省を忘れないのです。
交通事故でも言えますが、多くの事故は一方だけの責任ではなく、相手方も責任の一端を担っていることが多いのです。ですから事故を保険処理する際にも、双方の責任を3対7というように比率で設定するのです。
ただ超自我のようにいつでも相対的な立場に立つと、相手を責めることができません。不都合が起きた原因の的が絞れなくなるのです。怒りの対象が、自分か相手か明確ではないので悲しみの感情が現われます。悲しみとは不可避的に発生した不都合に対し、魂の奥底で感じる感情と言えましょう。
怒りの感情が突発的で心の表面で発生するのに対し、悲しみは永続的で心の奥深くから沁み出るものです。悲しみとは、自分一人の力では解決しようもない、しかもそこを通過せずにはおれない苦境が我が身に臨む時に、自分の無力さと運命の辛らつさを感得しつつ、心の深奥から滲み出るところの感情に他なりません。
私たちが心を自我に占拠されない限り、怒りは最小限に抑えることは可能です。ところが悲しみはどうしても避けられないのです。何故なら私たちには人生の終着点としていつしか訪れる死が厳然として心に迫り来るからです。

怒りを発するのは責任転嫁をしている場合が多い。相手がすべて悪いと考えれば当然怒りが湧き上がって来る。しかし一歩下がって不具合の原因が自分にもあると思い至れば怒りよりはむしろ悲しみが湧いて来る。人生の不条理に気づくからである。
57に続く

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