金の行方

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自我と超自我

その50)
(男と女の愛の捉え方)
男女は夫婦となり、子育てを始めます。母親は普通、我が子の身近にいて愛を注ぎ続けます。食事の世話、排泄の世話以上に重要な、母親の子供に対する働き掛けは、その言葉掛けです。女性は男より使う言葉がより具体的である点において、この世に生まれたての赤子に言葉掛けをするには最適任者なのです。父親が抽象的な理屈を言っても赤子には全く通じないからです。
女性は言葉のやり取りによって愛を確かめ合う存在です。男は彼女たちほど言葉のやりとりを重視してはいません。男にとって言葉とは、人との会話手段としての役割もさることながら、自省や内省における、自分との心の内での対話手段としての役割の方が重要だからです。
女性と男性は脳の性質に根本的な違いがあるようです。一言で言えば、女性の脳は具体的事物の描写力に優れ、男性の脳は抽象的事物の相互関係を解析する力に優れています。
今は状況が変わって来てはいますが、概して女性の行動範囲は狭いのです。特に幼子を育てる母親の行動範囲は狭いのです。狭い範囲からいかに多くの情報を仕入れ、判断し、行動に結び付けて行こうかとすれば、表面的で具体的な情報に頼らざるを得ません。
さらに女性は情報を発信すると同時に情報を受信するのが好きです。昔から井戸端会議と言われているように、女性同士は話し始めたらその話題は尽きないのです。それは彼女たちが話しながらでも、相手の話を同時に聞けるからです。また人から言葉を投げかけられるのも好きだからです。
男は違います。人からの言葉かけは往々にして煩わしいのです。男は自分の内にしっかりと世界を築き上げているので、人から受けた言葉をすぐに自分の内に取り込むことはありません。その言葉をよく反芻した上で、自分の世界に益ありと判断できた場合にのみ受け入れるのです。自分の世界に無益な言葉はその場で切り捨てます。
女性は人から聞いた話を少しだけ脚色して伝えるのが得意です。そこで女性同士の噂話には尾ひれがついて、瞬く間に広がって行くのです。女性は他人から聞いた話の引用が得意です。従っていつの間にか、その情報量は膨大となるのです。
男は女性に議論で太刀打ちできません。彼女たちは様々な方面から取り入れた、自分にとって有利な情報を活用するのが実に上手いのです。さらに男と女性は喧嘩する土俵が違います。男は彼女たちの攻撃に対し、理論的に反論しますが女性にとって別に理論は重要ではありません。具体的事例が最後には物を言うのです。
男は内省を繰り返す内に、自分の言葉を持ち、具体的事柄を抽象的事柄にまで頭の中でまとめ上げる傾向があります。そして抽象化された言葉同士の結び付きを通して、一般的な論理を組み立てます。男は自分が組み立てた論理を持たない限り生きてはいけない生き物です。何故なら男の決断は、全く個人の責任に帰するからです。そして決断の根拠となる論理が打ち立てられていなければ、男は自分の決断にも自信を持てないのです。
女性は確固とした論理を持たないと言ったら怒られそうですが、女性の論理は主体的ではなく従属的な側面が強いのです。彼女たちの論理は、自分の足で稼いで得た情報に拠るよりも、人から聞いた情報で組み立てられる傾向があります。そこで体験としての事実に立脚点を置かず、自分以外の権威的な存在からの情報を論理の立脚点とすることが多いのです。また表面的な具体的事例を次から次へと並べ立てて議論の糧とします。
男が内省の結果、勝ち取った崇高な論理をもって女性に議論をしかけても、彼女たちは一網打尽にその論理を覆します。彼女たちは男の論理を解析して、反論している訳ではないのです。男が提示した結論だけに注目して、彼女たちが所持するあまたの権威ある言葉を引用して、相手の結論の正当性を否定して来るのです。男がいくら女性からの反論を真に受けて、それを論理的に反撃しようとしても無駄なのです。その間に彼女たちは次々と新たな弾を用意できるからです。
言葉はこのように女性にとっては有力な武器です。そして同じ様に言葉は彼女たちにとって有力な慰めなのです。話し言葉なしでも男は生きて行けますが、女性は生きて行けません。男には話し相手がなくとも、自分の中に対話する相手がいます。女性の心の内にも対話する相手はいますが、それだけでは不充分なのです。女性にとっては周囲からの言葉を含めた刺激が不可欠だからです。
女性にとっては優しい言葉をかけたり、かけられたりするのは愛の表現なのです。男にとっては何ともこそばゆい言葉を通しての愛のやり取りが、女性にとっては不可欠の滋養要素なのです。幼子が母親からの優しい言葉かけの過程で愛を確認し、愛を心に育んで行くように、女性とは周りの誰かから愛に満ちた言葉をかけ続けられなくては、心が枯渇する存在であるらしいのです。男の心も外からの言葉の滋養は必要でしょうが、少なくとも女性ほどには必要としていないことだけは確かです。

男と女の愛の表現は全く異なる。男は隠れて愛を表現したがるが女はあからさまな愛を求める。あからさまな愛を求める女の意向に屈したのが西欧文化である。
51に続く

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