神から離れる

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自我と超自我58

その58)
(過去への執着)
死の受容を受け入れ難くする原因に、過去への執着があります。特に楽しい思いに満たされた過去や栄光に輝いていた経歴は執着心を生み易いものです。執着心とは過去だけでなく、思い出の品にもまとわり付いています。楽しさを彷彿とさせる思い出の品々は捨てたくないものです。同じく、心に刻印された栄光の経歴も捨て難く、いつまでもその経歴に縋り付く傾向があります。過去自分の果たした実績が現在でも通用すると考えるのも、過去の栄光に自我が引きずられているからです。
超自我と違い、自我はあくまで自分周辺の状況にしか眼を向けないものです。過去に果たした仕事でいかに栄光ある実績を残したとしても、それは偶々その時代とその環境の中でのみ達成できただけなのです。時代は変わり、状況が変化した今の時点で、過去の実績が生かせる職場が見つかるかどうかは全くの未知数なのです。超自我はすべての変化を考慮しつつ、新しい状況でなすべき行動を選びます。ところが自己に有利な条件しか見えない自我は、過去の栄光が現在の状況でも有効であるという思い込みが強過ぎるために挫折を余儀なくされるのです。
過去の楽しい思い出にまつわる物を捨てられないのも自我が優勢だからです。現在の生活を最優先させる超自我は、無駄や余分を排除します。自分の置かれた環境の中で、今最低限必要な品をあてがわれていれば、超自我としては満足を覚えるのです。それは多くもなく、少なくもない中庸の道です。
自我の欲求は違います。過去に思いを引きずる、すべての物品をいつまでも身近に確保して置きたいのです。自我とは自分が味わった楽しい思い出だけに執着するからです。現在の状況より過去の思いを優先させているのです。超自我に比べ、自我の守備範囲は極端に狭いのです。つまり自己の感情的喜びに直結する心情に振り回されているのです。ビデオで我が子だけを映すのも自我がなせる業です。親が我が子の喜びだけに浸って、周りの子供の喜びはどうでもよく感じるのも、自我が強烈に働いている証拠なのです。

過去に執着するのは過去から逃げているからである。過去に面と向かい、その実態を精査するならば過去に戻りたいとは思わないだろう。過去の思い出に耽っている中高年亜は過去の真実を見ていない。
59に続く

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