親子の資質

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自我と超自我49

その49)
(恵みの自覚)
私たちは日々、自然から恵みを受けています。衣食住は足り、大方の人々は健康を保たれています。それなのに不平・不満が絶えないのは何故でしょうか。人間以外の生き物で不平を感じている生き物はいるでしょうか。もしいるとすれば、腹を空かせた狼ぐらいのものだと思います。
ほとんど同じ境遇にあっても、心の持ち方で不満を感じる人もいれば、満足する人もいます。自然からの恵みをありのままに受け入れる超自我は、恐らく不満を感じることはないでしょう。不満を感じているのは私たちの自我なのです。自我は比較を好みます。過去のあの時より今は恵まれていないとか、誰それさんと比べて私は財産が少ないとかの比較をするのです。
過去と現在を比較したり、他人と自分を比較すれば不満が出て来るのは当然のことなのです。何故なら誰と比較したとしても、自分が一番恵まれているとは絶対に言い切れないからです。健康に恵まれていれば財産が乏しかったり、恵まれ方は人それぞれ違うのです。それをそもそも比較する方が間違っています。
あなたは今の自分が自然の恵みに、いかに満たされているかだけに心を集中すれば良いのです。自我を惑わすサタンの囁きに耳を傾けてはいけません。もっと大きな家に住みたいとか、稼ぎの良い会社に勤めたいとかの希望を持って生きることは差し支えないのです。ただし、大きな家を持っている人を羨んだり、大企業に勤めている人に焼きもちを焼くのは良くありません。
焼きもちを焼く心はサタンにとっては恰好の隙を与えます。自我が焼きもちに犯されると、持てる者や社会に対する攻撃心が湧くのです。自我が攻撃心を抱いたが最後、心の眼は閉ざされます。心が凝り固まり、真実が見えなくなるのです。
自我が盲目になれば当然、超自我の出る幕はありません。自我はその方向性を失い、建設的な考えより破壊的な考えに徐々に傾いて行くのです。攻撃や破壊からは何も生まれません。特定の相手に対する攻撃心は、社会全体に対する攻撃心となり得るから危険なのです。
私もかつて親戚の叔父に対し、嫉妬心を抱いた時期がありました。彼は有名な企業の重要ポストに就いていたのです。私の嫉妬心は彼の家族にまで及んだだけでなく、彼が勤める会社にも及びました。嫉妬心が芽生えて以降、彼らとは親戚付き合いができなくなりました。さらにその会社の製品自体にも、根拠のない嫌悪感を抱き始めたのです。
他人が受けた恵みを羨む弊害は、この様に甚大な影響を及ぼすものです。私たちは自分に与えられた恵みをもって満足できるようになりたいものです。それには自我に主導権を握らせず、超自我の声に耳を傾けねばなりません。
嫉妬心を起こす元凶は財産や地位です。私たちは死んで、天国に行くにしろ、地獄に落ちるにしろ、財産を持って行く訳にもいきませんし、地位は何の意味もありません。それなのに私たちはどうして死ぬ間際まで財産を増やしたり、地位を向上させたりしたがるのでしょうか。
自我には執着心があるのです。超自我は周りとのバランスを考えて、必要最低限の生活必需品で満足します。ところが自我の欲望には際限がありません。財産は有り余るほど持ち、地位は企業のトップに上り詰めても満足感というものを知りません。常に今ある以上を望むからです。財産は増え続け、地位が上昇し続けなくては安心できないのです。執着心とは、今持っている物を手放せない心です。死の直前まで執着心の虜となった自我の最後はどうなるのでしょうか。
執着心に翻弄された持てる自我が、いざ死を目前にすると哀れなものです。残された短時間の内に、執着心に占領された心の整理を一挙に実行しなくてはならないからです。そこにあるのは、財産や地位が目の前から消え去る辛さだけではありません。執着心で限界まで膨れ上がってしまった自我を一瞬の内に解体しなくてはいけない精神的苦痛にも襲われるのです。財産や地位と同様、膨れ上がった自我を天国や地獄に連れては行けないからです。連れて行けるとすれば、生命の根源に直結した超自我ぐらいのものでしょう。それは調和の内に、自然に溶け入るようにして霊の姿で生き続けるからです。

自分がいかに恵まれているかを知るのは幸福の第一歩である。この世に選ばれて生を受けた者は本来誰もが恵まれている。そして毎日不自由なく生きていられることは喜びと感じるのが自然だ。
49に続く

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