実体験と疑似体験

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自我と超自我53

その53)
(魂の火と言葉)
心の内に燃えさかる火は超自我に生きる意欲を与え、その良き道しるべとなります。魂の火が燃えているのは心臓が休まず鼓動し、血液が体内を脈々と流れる脈動の様からも実感することができます。こうした実感は人間だけに許された特権なのでしょう。
もう一つ動物と違い人間に特徴的なのは、私たちが言葉を持つことです。しかも言葉は日常生活で使用されているだけでなく、それは魂あるいは霊と密接に結び付けられています。何故なら人の肉体は滅んでもその言葉は霊と共に生き続けるからです。私たちは霊を単に感覚的に捉えるのではなく、言葉を伴った生ある実体として捉えることができるのです。
中国の史記には「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」という記載があります。これは既に死んだ者の言葉が生きて、人を行動に駆り立てた様を表わしています。また同じく老子の言葉に「死せる者、その言うや良し」という表現があります。それは死ぬ間際にある人の言葉には、真実が含まれているという意味です。
私の母は臨終の床で意識が薄れる中、枕辺の私に向って最後の一言「仲良くしてね」と言って息を引き取りました。当時、私どもは夫婦仲が悪い上に、同居する実の姉とも諍いが絶えなかったのです。母はきっと最後の最後まで、私と家族の関係が心配でならなかったのでしょう。
母は「仲良くしてね」の一言にすべてを賭けたのです。彼女の魂の底から湧き上がった一言は、私の魂を直撃しました。私は深く反省し、「家族と仲良くせねば母の霊が浮かばれない」と心に決めたのです。今でも優しかった母の姿と共に「仲良くしてね」の一言が心に残っています。
真実の言葉は肉体が朽ちても、魂と共に生き続けるのです。霊となった母の面影は言葉を付与されたことで、生きた実体として私の胸の内に生き続けています。
父も母と同じ様に、優しく愛に満ちていました。自分の利益より子供や人の利益を優先して考える人でした。残念ながら亡くなる何年か前には認知症となり、家族のことも分からなくなる場面もありました。ところがそんな父でも一言だけはっきり話していた言葉がありました。
「救世軍の浅井、救世軍の浅井」と言って家から外に出ると、道行く人々に声を掛けていたのです。救世軍とは年末の社会鍋で知られるキリスト教宗教団体の一つです。父は幼少の頃からそこに所属し、亡くなる迄キリスト教信仰を全うしました。両親を幼くして亡くした父にしてみれば、教会が唯一の拠り所だったようです。
父は周りの人々にも信仰の素晴らしさを伝えようとして声を掛けていました。その言葉掛けの中には多少、自分を誇る気持ちも含まれてはいたでしょうが、福音を人に伝えようとしていた姿は愛に根差していたと思うのです。人に良かれと思う気持ちが言葉と行動とに表われたのでしょう。母が最後に言った言葉も私への愛に根差した言葉でした。無私の愛によって魂の底から発せられた言葉は、その魂と一体化していつまでも生きるのです。
無私の愛から出た言葉として二千年ほど前に発せられた忘れ難い言葉がありました。今まで何度か言及したイエス・キリストの言葉です。彼は同胞のユダヤ人とローマ兵の手により十字架刑に処せられました。その死の直前に発せられた言葉が「どうぞ彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」との赦しの言葉でした。
一体どこの世界に自分を死に至らしめた敵に対して、死の直前まで赦しを乞う人がいるでしょうか。イエスはこの言葉を最後に、三年間の公的人生に終止符を打ちました。最後の言葉さえ恨みごとではなく、愛に満ちた言葉であったのです。この故に肉体が滅んだ瞬間、イエスの魂と言葉は命を得たのです。
イエス・キリストが生前、口にした言葉は聖書に記されています。聖書が廃れない理由は、そこに書かれたイエスの言葉が今でも生きているからです。イエスの霊は生きた言葉と合体して、キリスト信者の心の内に今でも生きているのです。

親はある意味で我が子のために死ねるかも知れないが、全く見ず知らずの人のために死ぬことは難しい。だが人間にはそうした機会に恵まれることがある。その運命を背負った者は幸せかどうかは分からないがとにかく人生の意義だけは感じられたことだろう。
54に続く

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