父子の対話

父子の対話.jpg
pafe.JPG
nice!(0)  コメント(0) 

自我と超自我48

その48)
(生きた言葉)
私利・私欲から自由になるとは一体どういうことでしょうか。簡単に言えば、その生涯を通して個人の超自我が生命の根源と直結し、周囲と不和を引き起こす頑なな自我に翻弄されない霊と言葉であったことが条件です。人のために生涯を犠牲にした偉人の業績が後の世に語り継がれるのは、私利・私欲を超えた崇高な目的を果たしたからです。
さらに霊と言葉に永遠の生命を宿すにはもう一つ、決定的条件が付きまといます。決定的条件とは、その個人の死が自己犠牲的な死であるということです。人類歴史上、この二つの条件を完璧なまでに満たした個人はイエス・キリストだけです。
イエスは私利・私欲が全くなかった点において神に等しかったのです。神とは太陽を支配下に治め、エネルギーを無尽蔵に放出する存在として、私利・私欲などは全く持ちません。そして、もう一つの条件である犠牲的死については、イエスが自分の利益で死を選んだのではないという点が重要です。イエスが救世主としてその身を同胞のために捧げるという内容は、聖書という書物にイエス誕生前から既に預言されていた事柄でした。イエスは長く生きるより、短命でも聖書の預言に従う道を選んだ点において自己犠牲的であったのです。
イエスはユダヤ人そして結果的には、人類のためのいけにえとして神に捧げられた意味合いが強いのです。ユダヤ人は古来、罪を犯すと許しを乞うために、神に動物をいけにえとして捧げる習慣がありました。彼らは神と契約を結んだ民族です。そして神に従えば地上の楽園を与えられると約束されていました。
ところがユダヤ人の心は当時、頑なであったがために神から離反し、結果的に祖国は敵の手により滅ぼされたのです。神から離反する罪は、すべての罪の内でも最大級の大罪です。神ヤーウェの怒りを鎮めるには、生きた犠牲が必要だったのです。その犠牲は動物では足りず、人間をおいて他にありませんでした。しかも罪を犯した人間では不十分だったのです。罪を犯した人間にはいけにえとしての資格はないのです。罪を犯した者は、その理由だけで神から罰を受ける宿命があるからです。
人類を神に回帰させる目的としてのいけにえは無罪潔白の者をおいていません。罪を全く犯したことのない人間は、当時イエスしかいませんでした。イエスはその超自我において、完全に生命の源である神と直結していました。さらに彼は荒野でサタンの試みに遭い、三度にわたって自我を否定し死滅させました。その段階でイエスは霊的レベルにおいて、人類史上神に最も近いレベルにまで到達したのです。
ユダヤ人だけではなく、人類が犯した、神から離反する罪を償うのはイエスしかいなかったのです。イエスはその役割を全うするために、十字架上で死を遂げました。その死をもって、長い間の神の怒りは解けたのです。本心に立ち帰る人間に神は微笑みかけたのです。
イエスの肉体は死滅しましたが、その霊と言葉は生き続けたのです。犠牲的死によって、神はイエスに子たる身分を授けました。何故なら神に最も従順な生を貫き通し、その死自体も人類の身代わりという意味では、自分の命さえ自発的に他人に提供する太陽そのもののような存在だったのです。その行為は正に自分の持てる物すべてを人に与え尽くした生涯でした。生きた命さえ与え尽すという行為は、神の愛に匹敵する行為だったのです。
神に最も近いイエスの生涯は、肉体の死で終わりではありませんでした。肉体の死を越えただけでなく、イエスの霊と言葉は時空を超えて解き放たれたのです。与え尽した生涯を完結したイエスの言葉には命が吹き込まれました。命を賭して立証した言葉は真実、そのものであるからです。
イエスが生前、語った言葉は生きた言葉として今でも聖書に記されています。それは生きた言葉であると同時に、与える言葉なのです。人から何かを奪う言葉ではなく、人に愛を与える言葉として、尽きない泉のように、その内から生命が迸り出ているのです。

言葉が生きているとはそれが信頼に足る言葉だと言うことだ。その言葉を信頼していれば結果は必ず良くなるという実証済みの言葉だ。そうした言葉には権威があり威力があるのは間違いない。
49に続く

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。