人生の失敗2

第2回
自我の芽生え
私が生まれて初めて自我に出会ったのはある人物を介してであった。その人物はチョーさんという名で私の記憶に留まっている。記憶は良い記憶より悪い記憶で残りやすい。悪い記憶ほど魂の奥底にまで達しているからだ。
チョーさんの言葉で私の自我は傷つけられた。映像も記憶には重要だが言葉は確実に薄れることなく記憶に留まる。言葉はそれだけで一人歩きする性質を有する。従って言葉による相手への攻撃や中傷は相手の心から消え失せることはないことを覚えておくべきだ。
余談だが痛みの記憶も強烈に心に残る。幼少時に足を自転車に巻き込み足首の皮膚を剥いた事故・指の爪をミシンで半ば貫通した事故等はその時の痛みと同時に即座に思い出される。つまり心には楽しい記憶より辛い記憶が残りやすいということだ。
話を元に戻すとチョーさんは幼い私に嘘をついた。洋服組合の旅行の二日目の朝、父親が私一人を置き去りにして帰ってしまったと私を騙した。子供の私はその話を真に受けて泣き叫んだ。それを見てチョーさんはほくそ笑んでいた。幸いなことに父はやがて洗面から戻って来た。私はホッとしたと同時にまだほくそ笑んでいたチョーさんを憎らしく思った。そして次の瞬間私は彼に躍りかかっていた。
この記憶は今でも鮮明に残っている。そしてチョーさんへの恨みは恐らく一生消えることはないだろう。家族の優しさしか知らなかった私が外界の代表である他人から酷い仕打ちを受けた初めての経験だった。私は自分の周りには敵がいることを知った。そしてその敵から自我を守る必要を感じた。名誉欲が阻害された経験だった。
チョーさんにとってはほんの遊びで子供心をからかったのだろう。それはいじめとはいかないまでも相手の自尊心を傷つけた。いじめは意図的に相手の自尊心を傷つける。動機は違っても相手の心を傷つけることに変わりはない。肉体的暴力より言葉の暴力の方が深い傷を負わせることが多い。
3回に続く
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