遊び心

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人生の失敗1

失敗の効用
第1回
人生には失敗がつきものである。人は必ず失敗する。しかしその失敗を最小限に食い止める方法はある。それを考えて行こう。

失敗の原因は自我にある
自我は私たちの行動や考え方を左右する。その自我を知らなければ自我の暴走を食い止めることはできない。従って己の自我を知ることから始めねばならない。喧嘩もいじめも自我同士のせめぎ合いから発生する。強い自我は弱い自我を支配下に収めようとする。弱い自我も黙ってはいない。やがて強い自我に反旗を翻す時もあろう。いずれにしろ自我同士は傷つけあって疲弊する。そして闘争の傷跡だけが残る。それは人生の汚点となり、一生残る場合もある。果ては怒りが嵩じて恨みと化し強大化することになる。

自我の叫び
この世に唯一確実なものがある。それは自我の叫びだ。自我は直に外界と接触している。同時に自己の心とも直結している。身体からの欲求をも敏感に察知している。従って自我は個人の司令塔としての役割を担っている。ところが自我を使いこなせない者が多い。いや大多数の人々は自我に翻弄されている。自我を制御できないばかりか自我に翻弄されるのは残念なことだ。自我を手中に収めない限り人生から致命的な失敗を取り除けないのは必至だ。従って自我の叫びはおろか自我の囁きさえも聞き逃さない注意が必要だ。

自我と欲望
人には様々な欲望がある。食欲・性欲・物欲・支配欲・名誉欲等数えればきりがない。自我はそれらの種々の欲望からの信号を察知しながら最適な行動を起こすように我々を導いている。自我の判断ですべての行動が決まる。その決定によって成功もし、失敗もする。盲目的な自我は失敗することも恐れずに大胆な行動を起こすこともある。また一度失敗せてもその原因が分からず同じ失敗を繰り返すこともある。自我が知恵を得る唯一の手段は失敗に隠されている。一度の失敗からどんな教訓を読み取るかがその後の人生の成功の鍵を握っている。
2回に続く

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責任回避

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自我と超自我 最終回

最終回)
(結び)
 自我が優勢な現代社会の中にあって、私たちの超自我は片隅に追いやられています。この本末転倒な状況を分かって頂けたでしょうか。
 あなたの自我が超自我の重要さに気付きさえすれば、周りの世界は変わります。超自我を味方につければ百人力なのです。今まで眠っていた、あなたの潜在能力も呼び覚まされ活躍の場を見出すことでしょう。
 あなたの心の奥底には無限の可能性が秘められていることを覚えて下さい。あなたの心で出番を待つ潜在能力は機会さえ与えられれば、すぐにでも活躍するでしょう。それには心の枷となっている強力な自我に一歩退いてもらいましょう。
 私が54年の人生で体験した自我と超自我との葛藤を述べて来ました。これを読まれてあなたにも思い当たる節があったでしょうか。
 これからはあなたがご自分の心と対峙してみて下さい。あなたの可能性を切り開くのはあなた自身なのです。どうか勇気をもって自分の心の奥底に分け入ってみて下さい。必ず新たな発見がある筈です。
 新しいあなたが今、旅立つのです。人間は一人で生まれ、一人で死んでいきます。孤独を恐れてはいけません。孤独に思えるのはあなたの自我が孤立しているからです。自我を助ける超自我から孤立しているからです。
 どうか自我に働きかけて超自我と手を結ぶ努力をして下さい。自我と超自我が協力体制に入れば恐いものはありません。何故なら超自我こそが全宇宙のエネルギー源と直結しているからです。
 あなたの自我は既に孤独ではないのです。周りの世界がいかにあなたに敵対しようが、あなたの超自我が味方につけば充分ではないですか。
 あなたが超自我と協力すれば、どんな困難にも打ち勝てると確信して下さい。あなたはもう孤独でもなく、弱くもないのです。あなたの潜在能力が今日からでも解き放たれることを期待しています。

 自我を自力で制御しようとしても不可能である。何故なら自我も自然によって創造されたものなので自力で対処できる相手ではない。どうしても自然を形作った創造者の力を借りるしかない。

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自我と超自我64

その64)
(そして自分らしく)
あなたは全世界でたった一人の存在です。歴史上でも一人しか現われませんでした。そして今後も同じあなたは二度と現われることはないでしょう。遺伝子組み換えでクローン人間が将来造られたとしても、すべてのクローン人間を全く同一の環境の元に置くことは不可能な筈です。従ってクローン人間自体も結局は、それぞれが唯一無二の存在にならざるを得ません。
あなたは愛すべき父母の元に生まれました。大自然からの豊かな恵みを受けて、今日まで成長して来たのです。そして明日もあさっても、大きな変化なく生き続けることでしょう。あなたが与えられた生を生き、その個性を最大限に活用することが、あなたに課せられた使命なのです。
もう一度、心を落ち着けて、あなたに課せられた使命とは何かを超自我に問いただしてみて下さい。きっと心の奥底からの叫びが、あなたを価値ある目標に導いてくれることでしょう。周りの人と違うことがあなたなのです。決して同じである必要はありません。幸せの形も、人それぞれ違うのです。あなたはあなたが最良と感じる幸せを摑み取れば良いのです。
あなたが生命の根源から授けられた一瞬一瞬を大事に過ごし、満足の中で一日の勤めを終えるならば、それに越した幸せはないではありませんか。他人の幸・不幸に心を騒がせてはいけません。ただ落ち着いた気持で、他人の幸福を祝し、身近な人の困難には同情を抱けば良いのです。そしてできることなら、周りで困難を感じている弱い人々に、援助の手を差し伸べられる心の大らかさと身銭を切るキップの良さがあれば言うことはありません。
生命の根源に直結した、あなたの超自我はあなたが人のために自分のエネルギーを費やすことを何よりも喜ぶからです。そしてそのためなら、古来から受け継がれて来た人類の叡智の宝庫を全く出し惜しみすることなく、喜んであなたにさらけ出してくれるでしょう。
あなたが生きている、それだけでこの地球生態系の中で何らかの役割を果たしているのです。あなたが今の時を満足の内に過ごしていれば、いつしかその満足が積み重なり、偉大な霊の足跡となり、永遠の時空に刻みつけられることでしょう。あなたが生きた証しは時空を超えて、永遠へと連なるのです。

自分らしくとはこの世で自己に与えられた使命を知りそれを全うすることである。言葉では簡単だが実行は難しい。先ず自己が人に対してなすべきことを知る。それがエントロピー的に世界に作用しているかを確認しながら全力で取り組む。毎日を悔いを残さず渡り切る。床に就く時、満足して明日もし目覚めなくとも憂いがない覚悟で寝につく。
最終回に続く

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自我と超自我63

その63)
(死を見据える)
常に死を目前に据える事は、私たちの今を充実させます。明日、死ぬかも知れない切迫感こそが今の時を燃え上がらせずにはおきません。死を目前に据えるには死の恐怖を克服せねばなりません。それには死は終わりではない事を知らねばならないのです。
確かに死は肉体の消滅を意味します。肉体を根拠としていた自我は、その存在基盤を失います。ところが超自我が消滅することはないのです。生命の根源と直結し、他の超自我との結び付きも強固な、あなたの超自我は肉体が滅んだ後も尚、存在し続けるのです。それでなければ、人類はこれ程まで広大な歴史を築き上げては来られなかった筈です。人類の歴史と遺伝子には祖先の霊が息づいているのです。
私たちは人生をゼロから出発する訳ではありません。生まれた瞬間から超自我は私たちを守り導きます。超自我はDNAに刻印された人類の叡智を集結し、最大限に活用しているのです。私たちは外界から独立しているように見えますが、実は外界と一体なのです。死は肉体を消滅させますが、私たちが地上に残した痕跡は他のDNAの中に保存されて生き続けるのです。ですから私たちも霊となり、他の人々の心に生き続けるのです。
肉体は死んでも、霊は生き続けることを確信すれば、死への恐怖は半減します。ただし私たちの心には、少なからず自我の影響がありますから、死の恐怖が完全に消え去ることは先ず考えられないのです。いずれにせよ死への恐怖を最小限に抑えられれば、神経を今という時に集中できます。
死んだ気になれば人間、何でもできるものです。自殺はいけませんが、死んだ気になるのは誰にでもできます。今までの古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を生きれば良いのです。「日々新たなり」という言葉があります。私たちに与えられた今日一日は昨日とは別物です。新たな気構えで今日を生きれば良いのです。そして明日のことで悩んではいけません。今日一日で終止符を打つ心持ちで、今に全神経を集中させれば良いのです。

死を念頭に置かなくては現在を効率的に生きることはできない。自分がいつ死ぬか分からない中で生きているからこそ現実に神経を集中できるのである。新でも悔いを残さない生き方をするには過去を清算し、未来に対する空虚な期待を抱かず、現在に意識を集中させるしかない。
64に続く

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弱い者

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自我と超自我62

その62)
(将来への不安)
心の平安を保てさえすれば、眼の前に立ち塞がるどんな困難さえも恐るるに足りないのです。私たちには現実的な困難に対する恐れや不安と共に、将来的な死への不安が襲って来ます。私は子供の頃、自分の死より親の死、特に母親の死を極端に恐れていた時期がありました。
ある日、昼寝をしている時に夢を見ました。夢の中に小さな神社が出て来ました。その神社の前面扉は大きく開かれ、中の祭壇には何本、何十本もの燈明が点っていました。やがて私の目の前で大きく開いていた神社の扉は静かに閉ざされたのです。私にはその燈明が命の火に思えたのです。そして扉が閉ざされたのは死を連想させたのです。
昼寝から覚めた私は全身汗びっしょりでした。辺りは薄暗く、部屋の電灯もついていませんでした。私はすぐに飛び起き、先ず母の姿を探しました。母の安否が気掛かりだったのです。辺りに母の姿は見当たらず、私は心臓をドキドキさせながら家を出たり入ったりしました。その内、母は何事もなかったかのように買い物から帰って来て、私はやっと胸をなで下ろしました。
子供にとって親の死は恐怖なのです。青年になれば親の死より自分の死が恐怖となります。ところが社会に出て働き出すと、私たちの日常から死の恐怖は影を潜めるのです。死の影が再び人生に陰を落とすのは、私たちが仕事を離れ、人生の黄昏に差し掛かってからです。

将来が不安なのは死の恐怖と金銭の不足が原因である。死の恐怖は現在に全力を注ぐことで取り払われる。金銭の不足は財産を残さない方針から解決策が見つかる。
63に続く

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