部下の不満

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人生の失敗53

第53回
反省できない人達
反省とは自分を客観的に眺めてその非を改めることだ。その結果、今までの価値観を変えざるを得ない場合もあろうし、行動指針も変える必要も出て来る。キリスト教的に言えば悔い改めとも呼べる。
稀代の名君主と呼ばれたダビデも大きな罪を犯した。不倫と殺人だ。だが神は彼を重んじた。ダビデが悔い改めに敏感だったからだ。自分の非を認め即座に行動指針を改めることができた。そして同じ過ちは二度と犯さなかった。
今の時代は反省できる人間が少ない。そもそも自分を客観視できない。自分を客観視するには先ず人生のどん底にまで落ちる必要がある。どん底まで落ちれば自分の無力さを否が応でも知ることができる。敗北感を味わうことができる。
さらに外国語を学ぶことと宗教を持つことも客観視の助けとなる。逆に客観視への妨げとなるのは自尊心である。自尊心は自分の能力の買い被りであり真実からは遠ざかっている。自尊心と自我の客観化とは裏腹の関係なのである。
54回に続く

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運転は集中

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人生の失敗52

第52回
失敗の効用
人間は自分の価値基準があやふやなために絶対者としての神を仕立て上げた。神を絶対善とすれば価値基準はたやすく設定されるからだ。昔の人々は災害さえも神に結びつけた。災害が起こるのは自分たちが何か悪さをした所為だとすれば理由付けが簡単だ。
人は失敗するとその行為を振り返る。そして自分の行動基準に過ちがあったのかどうかを反芻する。そして知恵をつける。従って人生に失敗は必要だ。失敗から何かを学べる。それを酒の力で忘れ去っては意味がない。
成功は価値基準を強めるだけだが、失敗は価値基準を根本から見直す機会も与えてくれる。だから意味がある。神を持たない者は失敗を自分の責任にするか相手すなわち社会の責任にする。今は後者が圧倒的に多い。自分が正しいと思う傾向が強い。
失敗を他人の責任に帰せば自分の価値基準は変わりようがない。失敗を自分の責任に帰する所から自己変革が始まる。基準の再設定に向かう。それが反省であり進歩である。イエスはその価値基準を最底辺に置いたがために物質的な争いは皆無だった。
成功ではなく、失敗においてのみ自我は打ち砕かれる。
53回に続く


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ソロモン王

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人生の失敗51

第51回
絶対的価値基準
イエスの価値基準は極めて低い。動物は所有観念を持たないため、その価値基準は相対的に人間より低いが、弱肉強食の原理に基づけば生きるためには獲物を殺す。時には仲間内でも獲物を争奪する。
イエスは受けるより与うるが幸いなりと言った。人間特有の所有観念は絶無の上に自分より相手の利益を重んじる価値基準は動物より格段上回っている。もしイエスの価値基準を我々の行動基準での善と認めれば人間に善人は誰もいない。
弱肉強食の動物を造った神の価値基準さえも上回るイエスの価値基準は一体何なのだろう。二十歳の私はその極端さに気づかないままキリスト教を信奉するのは不可能だと考えた。確かにイエスに従うのは理想的ではある。しかし現実的ではなかった。
52回に続く

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信仰の比較

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人生の失敗50

第50回
自然の摂理
高度経済成長が一段落し石油ショックが日本を襲って来た。エンジニアを目指していた私は将来に悲観した。既に物質文明は終焉を告げたと感じた。自然は過酷である。動物は生きるために戦う。弱肉強食の摂理が働いている。
人間だけが自然の資源を無駄遣いしているのは解せない。動物たちは必要最小限の糧食で満足しているのに人間は必要以上の食物を食べても満足しない。動物は土地を持たないのに人間は土地を巡って争いを続けている。
イエスの教えは人間を自然に回帰させた。必要最小限の糧食で満足すべきことを教えている。土地や建物、その他の私有財産を否定している。それは徹底したものだった。人間が評価する価値観とは逆行する。その極端さが心を捉えた。
51回に続く

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人生の失敗49

第49回
宗教の独善性
キリスト教をはじめ、どの宗教でも信者は自分の宗教が第一だと考えている。そこで宗教観の争いが起きる。ところが人の考えはみな相対的であるので結局どの宗教が一番だとは言えない。
キリスト教に初めて出会った私は二十歳だった。イエスは霊的な価値を第一に唱えた預言者であったので世俗的な価値観を軽んじていた。当時の私はその教えに心を奪われた。物質文明に嫌気が差していた頃だったのだ。
私は人生に倦み疲れ生きがいを失っていた。親の恩恵で物質的には満たされていたが霊的な満足感は得られなかった。心が暗黒だったのだ。その暗黒の中で出会ったのがイエスの言葉だった。
彼は神に直結しているように見えた。私も神に直結したかった。この世に生を与えてくれた神に直結するより大なる喜びはこの世にないと考えていた。人間関係にも疲弊していた。心の安らぎが欲しかった私は聖書に慰められた。
50回に続く

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