長いトンネルの向こう1

その1)
「パパーー、パパーー」
 心の底から振り絞るような叫びと共に、妻加代の姿はトンネルのような長い廊下奥の鉄扉の中に消えていった。聡史の耳にはその声が未だ昨日の事のように残っている。そして瞼には彼女を両脇から支えていた白衣の看護師たちの後ろ姿がクッキリと焼き付いている。そこはある精神科病院の隔離病棟だった。
 事の発端は10年前の初夏に遡る。下の息子和也が2歳の誕生日を迎えた次の日の午後、突然家に電話の呼び出し音が鳴り響いた。
「お義父さん、お義母さんが事故で入院したので、すぐ来て頂戴」と妻の姉千代からの電話だった。聡史は家族を車に乗せて、「大事に至りませんように」と祈りながら高速を飛ばした。
 その日を境に聡史の家族は共々、長くて暗いトンネルに突入した。
 実家の両親は事故後、一時的に退院することはあっても継続的に入院生活が続き、どちらも病院で息を引き取った。
 聡史の両親も相前後する形で天に召されて行った。下の子が生まれてから10歳になるまで、ほぼ2年毎に4人の両親が旅立って行った。
 実家の両親の入院生活で一番、心身共に疲弊したのは妻加代だった。当時、2歳と6歳の子供を引き連れ、何度も夏の暑いさなか、東京・仙台間を往復した。時に下の子がベビーカー内で脱水症状を起こし危険な体験もあった。それと言うのも実家近辺に親族が住んでいなかったため、妻が両親を看護する機会が多かったためだ。
 その当時から彼女の心身は変調を来たし始めていたのだろう。聡史は加代と様々な場面で言い争う機会が増えた。東京・仙台の度重なる行き来について、子供たちの教育・躾について、家計の大変さについて。聡史たちは神に結び合わされた結婚式を挙げたにも拘らず、激昂した会話の中で時に「離婚」と言う言葉も度々登場した。聡史たちの心は完全に神からもお互いからも離れ去っていた。
 聡史には仕事上でも波瀾が起きていた。結婚後に脱サラし、自宅で塾を開いていたものの、完全に経営に行き詰まってしまっていた。聡史自身サラリーマン復帰を考えざるを得ない時期だった。
 時を同じくして、聡史の母にガンが発見され手術が行なわれた。1,2年安定した生活が続いた後、再発し自宅療養を余儀なくされた。聡史の姉喜美が1年余りの間、付き添い介護に当たった。
 やがて同居する聡史たち家族と母・姉との諍いの序章が始まった。多くは住居に関するトラブルが中心だったが、聡史は常に彼女達と加代との間に挟まれてどちらの味方につく事もできない不安定な立場が続いた。
 当時、聡史たち家族は2階に住み、1階は母と姉とで使用していた。玄関が共同使用の中途半端な二世帯住宅であるのが問題だった。ついに母が亡くなってからは姉がその玄関を使い、聡史たちは別の勝手口を使わねばならなくなった。その一件で1階と2階との交通は途絶え、姉と妻との確執は強くなって行った。
 加代が最初に変調を来したのは、新潟に農業体験に行った時のことだった。農協主催の農業体験ツアーに彼女は小学生と幼児の息子を連れて参加した。それは夏の最中の出来事だった。
2に続く

nice!(0)  コメント(0) 

社会通念の壁

社会通念の壁

犯罪にまでは至らずとも社会通念上では好ましからざる行為がある。社会通念に反する行為は社会の目を気にする。恥ずべき行為と見なされている。社会通念の壁を乗り越えてまで先へ進むには多大なエネルギーを必要とする。そのエネルギーは肉体からの欲求に発する場合が多い。或いは歪んだ怒りがその起爆剤として働く事もある。
肉体の欲求として食欲が原動力となる機会は少ない。敬虔なイスラム教徒でも極端な飢餓に見舞われれば豚肉を口にするかも知れない。男には周期的なエネルギーの高揚がある。放っておいても消えることはない。社会通念の壁を乗り越えようと高まる欲求の波は押し寄せて来る。その波を無理に堰き止めるか、適度に壁を乗り越えさせてエネルギーを分散させるかは個人の力量に委ねられている。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。