自転車 最終回

最終回)
大蔵ランドから多磨動物園までの距離は長いが道順が単純なのでこうして来れたのだと思う。左折・右折が殆どなく、道なりに進めば良い。坂を登り終えるとなだらかな下り坂が続いた。汗をかいた体に涼しい風が心地良かった。遠くに川が見える。山道を越えると街中に入った。車の数が増えて来た。高幡不動の町を通り過ぎたのだけ良く覚えている。後もう少しで左折する場所がある筈だ。‘あった。’多磨動物園の表示とともに左折の矢印がある。健次は安堵で胸をなでおろした。もうここまで来れば目標を目指すだけだ。あと直線距離にして2キロほどで動物園に到着する。辺りは既に夕暮れに近づいて来た。健次の心は目的地が近くに迫った喜びで一杯だった。足の筋肉はは疲れではちきれそうで、呼吸も苦しかった。残りの道のりをもうすぐ到着する動物園の正面玄関を思い浮かべながら健次は自転車のペダルをこいだ。緩やかな上り坂が続いた。
そしてとうとう多磨動物園の正面玄関が見えるところまで来た時、健次の心にはすごく大きなことをやり遂げようとしている自分に誇りを感じた。バスか電車でしか来たことがない場所に一人で自転車できた自分がひどくたくましくさえ思えた。やっと動物園の正面まで辿り着いた。辺りは夕焼けに染まっていた。
到着して喜びをかみ締める間もなく帰路につかねばならなかった。既に5時は過ぎていたので家に到着するのは大分遅くなると予想できた。到着した喜びをかみ締めると同時に今来た同じ道のりを帰る不安が心を満たした。元気でいようとするのだが疲れがじわじわ迫って来るのを感じた。帰りの道は来た道を反対に辿れば良いからそれほど困難ではない。でもこれから夜が来る。見知らぬ土地で一人で夜を迎えるのは恐かった。しかも手持ちの金は20円しかない。
早く家に帰りたい気持ちが健次の心に急激に湧き上がって来た。美味しい夕食。今晩は何だろうか。好きなカレーかハンバーグか。それより心配して待っている親が気にかかった。夜がふけてから帰るのは初めてではなかったので大げさに心配はしないだろうが、自転車で多磨動物園に一人で来て、暗くなりかかっている川崎街道を走っているのを知ったらさぞかし驚くだろうと健次は思った。早く無事に帰って安心させてやりたいと思った。
川崎街道の夜道を走っていると色々な記憶が蘇った。瀬田の交差点に住んでいた頃に近くにガラス屋があった。そこの兄さんは脚力が抜群だった。当時は自転車の後ろにリヤカーをつけて硝子を運んでいた。ある晩、その兄さんはリヤカーに近所の子供たちを5,6人乗せて夜のサイクリングに出かけた。健次もその内の一人だった。その兄さんは自転車をこいで今のファミリーパーク辺りまで行った。途中、急坂があったがそれを物ともせずどんどん進んでいった。夏の夜の夕涼みには最適のサイクリングだった。
高幡不動の町を通り過ぎると山あいの道に入った。夜になり森の中はさらに暗い。行きに通った時とは大違いで恐い。車の通りも少なくなったので暗さが倍増した。街灯も殆どない。幸いなことにそこは緩やかな下り坂だったので健次は猛スピードで下って行った。後はずっと直線が続く。
川崎街道を左折し、世田谷通りに入った。辺りはすっかり暗い。多摩川の橋を渡ると健次はペダルに力が入るのを感じた。もう少しで家に帰れる。これほど我が家が恋しいことは今までなかった。我が家の素晴らしさをしみじみ感じた。暖かいご飯と冷たい飲み物が待っている。気持ちの良い風呂が待っている。それにも増して健次を喜んで出迎えてくれる親がいるのがこれほど嬉しく感じたことはなかった。家が近づくと健次はすっかり安心して持っていた20円でアイスキャンディーを買った。その美味しかったこと。その冷たかったこと。一生忘れられない味だと思った。
家に帰ると思っていた通りに親は喜んで出迎えてくれた。多磨動物園に行って帰って来たと聞いて二人とも大層驚いた。その晩の食事は最高に美味しく、風呂は最高に気持ち良かった。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。