夢解析器30 前篇

前編

「こんにちは、今日も暑くなりそうですね」A氏は元気に登場した。
「こんにちは、Aさん今日は元気そうですね。Aさんの好きな8月も今日で終わりですね」
「はあ、これから秋が来ると思うと何だか無性に淋しいんですよ」
「Aさんも感傷的なのですねえ。私は食欲の秋は大歓迎なのです。体重が少し気掛かりなのですが、食べる誘惑には勝てませんわ」
「あなたは今ぐらいふくよかな方が魅力的ですよ」A氏はすかさず受付嬢のボディーラインをチェックした。
「まあAさん、あまり見つめないで下さいね。ところで今日はどうされましたか」
「はい、久々にまとまった夢をみましたので解析をお願いに来ました。ここに初めて伺ってからもう30回目だとは驚きですねえ」
「そうなのです。アッと言う間に30回のスタンプが溜まりましたねえ。50回、100回では記念品がありますのでお楽しみにしていて下さいね。では、どうぞ奥へいらして下さい」
受付嬢はA氏を廊下奥にある緑の扉まで案内した。
「では、しばらく中でお待ち下さい」
A氏が部屋の中で待っているとやがてノックの音と共に心理士が受付嬢の豊満な身体とは対照的なスリムな身体で入って来た。ピンクの診療衣の上からはスリムに見える体型だが、A氏はその腕の感触に残る彼女の弾力ある肢体を思い返していた。
「お待たせしました。Aさん何、見てるのですか。診察衣の奥を見透かすように目で見ないで下さいね。殺気が感じられますよ。男の方は妄想を抱きやすいので注意が必要ですねえ」
「いや済みません、先生につい見とれてしまいました。診察衣に限らず看護衣や制服なんかは男の妄想を刺激するものですねえ」
「男の方が妄想を抱くのは勝手なのですけれど、それを相手の女性にまで拡大解釈されるのが大いに問題なのです」
「とおっしゃいますと」A氏には少し言葉遣いが難し過ぎた。
「男の方が女性の艶姿に刺激されて抱きたいと考えても、相手の女性は全く抱かれたいとは考えていないことを知るべきです。男の方は自分の思い込みを勝手に相手に転嫁してはいけないのです」
「それじゃあ、僕が先生を見てムラムラしても先生は僕に対して全くムラムラしないと言うことですね」
「当たり前でしょ。私をそんなに好色な女として見ないで下さい」心理士は憤然としていた。
「冗談ですよ、先生。例えを言ったまでですよ。怒らないで下さい」A氏は必死で言い訳をした。
「まあ、それは分かりますが、あなたはたまに冗談が本気になるのが恐いのですよ。男の性欲は常に本気なので、女にとっては脅威なのです」彼女は言葉を噛みしめていた。
「ははあ、先生にも人に言えない過去があるんですね」
「ほとんどの女性は男の恐さを体験しているのです。特に性的魅力を漂わせている女性は細心の注意が必要なのです。男は彼女たちから目を離しはしないからです。チャンスがあればいつでも襲いかかる準備をしているのです」
「僕も先生からそんな風に見られてると考えるとちょっと心外だなあ」
「Aさんは正直なのですぐ分かります。あなたが私に反応する時は精密機器でなくとも空気で読み取れるのです。ですから私はAさんにあまり脅威は感じていないのです。こうして二人きりでいても安心なのです」
「それは誉められてるんだか、けなされてるんだか良くわかりませんね」
「私はAさんの自制心を誉めているつもりですけどねえ。ところで昨夜のゆめは何だったのですか」
心理士は機器から伸びたセンサー端子をA氏の額にセッティングしながら話を切り出した。
「昨夜は寝入りばなに夢うつつの状態で腹痛を起こしました。夜に食べた冷やし中華が良くなかったようです。前日も昼、中華つけ麺をたべて腹痛を起こしました。中華めんは消化に良くないのです。夢うつつの中で腹痛が僕を現実に引き戻しました。トイレに行きスッキリしたので、そのまますぐ眠りに就くことができたのです」
「夜中のトイレはきついですよね」彼女は同情した。
「夢は2部か3部に分かれていたのですが、全ては思い出せません。1部で僕は合唱隊に加わっていたのです。僕以外にはほとんどが女性で皆を引き連れ、海岸で練習したのです。僕は最後に独唱しました」
「恰好良いですねえ」心理士はA氏の特技に感心した。
モニターには白い砂浜が映り、波の音にかき消されながらもA氏の歌声が響いていた。すると突然、そこへ一人の年配の男が近づいて来た。そして何やらこちらに向かって抗議し始めた。
「この方は一体どなたですか」心理士は突然の展開に目を細めた。
「僕もあまり見覚えがないのです。恐らく音楽関係で僕が知っている誰かだとは思うのですが、良く憶えていません。バイオリンの津田先生か或いは鈴木先生あたりではないかと思うのです」
「お二人ともご存知ですか」
「津田先生は以前、上の息子の先生でした。鈴木先生には会ったことはありません。今は亡くなり、鈴木メソッドの創始者です」
「その方が近づいて来られ、Aさんに何と言われたのですか」彼女はその内容が気掛かりだった。
「僕は彼が言った内容を良く聞いていないのです。何故なら彼がこちらに近づいて来た時に、言われる内容を既に察知していて僕はすぐにその場を離れたのです」
「つまり逃げられたわけですか」彼女は少しがっかりした様子だった。
確かにモニターには、その場を離れたA氏の視線が捉えた海の家のロッカー室内部が映し出されていた。
「僕はロッカー室に入り遠くから事の成り行きを見守っていたのです。先ほど近づいて来た男の言葉が頭の中に響いていました。『もっと大きな声で歌わないと誰にも聞こえないですよ』僕は自分の声が小さいことを確信していたのです。それを今さら指摘されることが堪らなく嫌だったのです。『そんなこと分かってるよ』と叫び返したかったのです」
「Aさんの喋る声は大きいようですけどねえ」心理士は納得できかねた。
「大きな声で喋れても歌は別なのです。歌には特別な発声が要求されるのです。歌は呼吸器官と腹が丈夫でないと歌えないのです」
「Aさんは丈夫そうに見えますけどねえ」彼女は尚も納得しかねる様子だった。
「確かに普通のレベルでは丈夫なのかも知れません。でも発声する時に最大限の声が出せないのです。一つには恥ずかしさも影響していますが、根本的には胃の欠陥なのだと思います。胃を空気で満タンにまで膨らませられないのです。胃袋が部分的に硬直しているのかも知れません」
「え、胃袋が硬直するなんてことがあるのですか」心理士は医学界の新事実を聞いたような驚き方だった。
「胃は伸び縮みするのです。ところが精神の緊張状態が続くと胃袋の伸縮が自在にできなくなるのです。僕は胃袋の欠陥により精一杯の声量で歌が歌えないのです」
「それは思い込みのような気がしますがねえ」
「いえ思い込みなんかではありません。何度も試した事実なのです」A氏はいつになく断定的な物言いをした。
「分かりました。あなたがそんなにも断固とした言い方をされるとは思ってもいませんでした。見直してしまいましたわ。ところでロッカールームで隠れられた後どうされたのですか」
「その後、その場所に中学校時代の男友達が入って来たので、彼と一緒に中学校の校舎に戻りました」
モニターには学校のプロムナードでA氏に絡んでいる数人の男子生徒が映っていた。
「この方たちは何であなたに絡んでいるのですか」心理士は心配そうに問いかけた。A氏は彼女の食い入るような視線に釘付けになってしまった。彼女の大きな黒い瞳の奥には悲しみの影が湛えられていたからである。
「僕は少し前にクラスの女の子が落としたペンケースを拾って上げたんです。それには特に下心があった訳ではないのです。ただ、それを見ていた同級生の男たち数人にイチャモンをつけられたのです。間が悪かったのです。僕は女の子たちの気を引こうとして、親切をしたと見咎められたのです」
「それは何とうがった考えなのでしょう。親切を変に曲解するなんて精神が歪んでいる証拠ですわ」彼女はモニターに映っている数人の男たちを見ながらも異様に憤慨していた。
「まあ僕の方も誤解を招きそうな行動をしたから仕方ありません。ここまでが2部なんです。3部は午前中までは憶えていたんですが、昼食を食べたら殆ど忘れてしまいました」
「それも仕方ありませんねえ。夢の記憶は薄れる速度が速いですからねえ。このモニターによれば、あなたはどこかの倉庫に入り込んでいますねえ」
「僕は何らかの理由で倉庫に身を隠していたのです」
「Aさん、あなたは良くどこかに身を隠しますねえ。逃げたり隠れたりすることが今まで多かったようですが、これから一つ一つに立ち向かわれたら如何ですか」心理士はA氏を鼓舞しようとした。
「そうできれば良いのですが、僕は心底臆病なのかも知れません。いざとなると自分の身を引いてしまうのでしょうか」
「それはそれでAさんの特質として素晴しいとは思いますわ。私もその特質は好きです」
「え、また先生、喜ばせないで下さいよ。僕はすぐ本気になりますよ。それはそれとして今回で相談に伺ったのは30回目になるんですが、夢解析に何か意味があるんですかねえ」

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。