夢診療所 最終回

最終回)
「ここは僕が中、高時代を過ごした勉強部屋です。家にいる時は時間の大半をここで過ごしました。特に高校時代は、この部屋が僕の城だったのです。この部屋で勉強し、読書し、レコードを聴いたものです」
「今、モニターでは何か問題を解かれているようですね」
「はい、恐らく物理か数学の問題を解いていたと思います。当時、難問を解くことに目がなかったものですからねえ。数学者や物理学者を目指していたこともあるぐらいで、問題を解くのが、楽しくて仕方のない時期でした」
「私には想像もできない世界ですわ。私は心理学を専攻していましたので、数学や物理とは早く離れたいとばかり思っていましたわ」
「僕にとって問題を解くことは、パズルを解くように楽しかったのです。ただ一つだけ心残りなことがあります。それは念願の国立大学に入れなかったことです。さらに不本意な理系大学に進み、進級に何度か失敗した結果、退学せざるを得なくなりました。その結果、一時、目指していたエンジニアの道も断念したのです」
「それでは高校から大学にかけても波風の多い生き方をなさったわけですね。普通、何の気なしに大学に入り、単位を取り無事に卒業して、有名企業に就職するパターンが多いですのにねえ」
「僕にも、いつ歯車が狂ってしまったのか分からないのです。また、狂うほどの歯車が初めからあったのかどうかも、今では分からないのです」
「そうですねえ。人生の道を全くどの様に抜けて行くかは、誰にも予測できないものですわ。だからこそ、人生には挑戦する価値があるのですものね」
「僕もその都度、挑戦して来たつもりなんですが、今振り返ると紆余曲折した、まとまりのない人生になってしまいました。今思えば、高校時代の充実感は何物にも変え難い宝だったと思います。家に帰ると毎日5,6時間は勉強したものです。よくぞ、あれだけ集中力が保たれたのかと感心します。勉強の合間に唯一、ビートルズのLPを裏表聴くのが楽しみでした」
「はあ、それでビートルズと当時の生活があなたの潜在意識の中では結び付いているのですね。モニターの中で解かれている問題は何ですか」
「恐らく物理だろうと思います。物理は範囲が広いので、僕にとって一筋縄ではいかなかったのです。大学入試に際しても、僕は常にこの科目に対しては、やり残し感を抱いていたのです。もう少し集中的に勉強していれば、入試準備は完璧だったろうと悔やまれたのです」
「なるほど、あなたの物理に対する悔いが、未だに心の奥底にわだかまっているのかも知れませんね。それを今から除去するつもりはおありですか」
「いえ、今となっては物理の参考書を手に取るのも嫌ですよ。物理では、この人生における問題がどれ一つとして解決されはしないと知ってしまったからです。物理は物体の動きを予測できる学問です。ところが人生の問題は、どれ一つ取ってみても、物体の動きのように規則的に処理できはしないのです」
「私は人間の心理を扱っていますが、確かに心や感情の問題は計算通りに解ける訳ではないのです。物理学のように確固とした理論や公式があるわけではありません。人それぞれ抱えている問題の種類が全く違うのです。その人なりの解決策を考えなくてはいけません。大変ですが、また、やりがいも大きいのです」
「そうですよね。人間の心理ほど複雑怪奇なものはないですからねえ。それに比べれば、ニュートンの万有引力もアインシュタインの相対性理論も単純なものですよ。人間の問題が、自然現象を解くように解ければ、何の苦労もないですがねえ」
「あなたは高校時代、物理・数学にのめり込んだのは決して無駄ではなかったと思いますよ。それによって、科学の限界について身をもって学ばれたということですからね。もう少し勉強しておけば良かったという思いは、誰にでもあるものです。その思いが夢の中で、あなたに語りかけていたのでしょう」
「そうですか。では今後も当時の勉強の夢は再び、見るかも知れませんね」
「見ることはあると思います。でも、それはあなたの心の中では既に吹っ切れた問題だと見て、全く差し支えないでしょう。『あしたに道を聞かば、ゆうべに死すとも可なり』と論語にありますが、あなたがそれに近い心境に至った時点で、過去の悔いはあなたの夢から消え去るはずです」
「はい、どうも有難うございました。今日からゆったりした気持ちで床に就けそうです」A氏の顔には、既に過去に捉われない吹っ切れた表情が浮かんでいた。
 A氏が立ち去った部屋の中で心理士は一人自問していた。
「私は過去の思いが吹っ切れた結果、今の仕事をしているのだろうか」彼女は人の夢の解析をしてはいるが、自分の夢を解析したことはなかった。人の悩みには冷静に向き合うことができても、自分の悩みには冷静でいられなかった。彼女はA氏の夢を解析して行く内に、自分の夢もそこに重ね合わせている自分に気づき始めていた。自分の心に面と向かうのは、何と難しいことだろうかと考え始めたら、時の経つのも忘れるほどだった。
窓辺に照り映えていた夕焼けも、やがて薄れ行く兆しを見せていた。

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

母親と子供の癒着1子供たちと車 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。