生きにくい36

その36)
(道徳不在)
今、教育基本法改正が国で論議されています。国は国民に愛国心を目覚めさせ、道徳心を向上させようとしているのでしょうか。
戦前の日本では、神格としての天皇を頂点とした神道国家を礎としていました。その一環として教育勅語が唱えられていました。
また明治の国民に根付いていたのは、儒教の教えです。その中では思いやりを中心とした「人に迷惑をかけない」思想が説かれていました。
私は神道を国家宗教に復活せよと言うつもりはありません。また教育勅語を唱えて、人心を一つにする国策を支持するつもりもありません。ただ、せめて今の日本に儒教が説く「人に迷惑をかけない」思いが浸透すれば良いと考えるのです。さらに、その思いが発展して「人のために何かして上げる」思いにまで高揚する道徳心が、子供たちのうちから育ってくれれば良いと望むものです。
近年、むごたらしい事件ばかりが発生しています。犯人の動機は自分の欲求を満たすことだけなのです。人の迷惑は眼中にない。自分さえ良ければ、何をしても構わないと言う「自分本位」な思いに満たされているのです。日本人から道徳心は消え去ってしまったのでしょうか。
メディアで報道される犯人は、確かに道徳の歯車が狂っているようです。ところが正常と思われている私たちでさえも、いつ歯車が狂わないとも限らないのです。油断をしてはいけません。
最近、小学校男児をひき逃げした犯人が捕まりました。交通事故は注意していても、起こる場合があるので、一概に運転手を責めるわけにはいきません。ところが今回、事故を起こした男は、男児の自転車とぶつかって、そのまま逃げただけでなく、事故の証拠を隠そうとさえしました。自転車を隠した上、重傷の男児を現場から遠く運び去って、草むらに隠したのです。
どういう心境で、そこまでしたかは分かりません。自分が犯した罪を隠せば済むとでも思ったのでしょうか。火急の状況でも、犯人は自分の身の安全しか考えなかったのです。捕まったら困るという意識しかなかったのです。彼は重傷を負った男児の痛みはおろか、心配する親の気持ちさえも分からなかったのです。
人間とはここまで自分勝手になれるものかと、驚かされるほどの事件が頻発しています。道徳以前の問題かも知れません。人間性の問題なのです。人の痛みを自分の痛みとして捉えられない心の壁が、私たちを覆い始めて来たようです。
37に続くshuchuhouka.JPG
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

霊としての超自我夢の検証108 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。